島ヶ原(1)
2012年3月
島ヶ原駅
三重県伊賀市島ヶ原の関西本線島ヶ原駅。
それは何処?
ディーゼル二両編成の列車が走る「歴史ある!」関西本線です。
大阪-奈良-木津-加茂ー島ヶ原-伊賀上野-柘植-亀山-加佐登-名古屋
跨線橋に屋根がなくて横断歩道橋のよう。
駅前と駅東側踏切脇のお地蔵さん。
色々な観光資源に恵まれた土地と思うが、なにしろ鉄道は朝夕を除いて1時間に1本なので、訪れるには準備が必要。島ヶ原の起こりは、天平年間(729-749年)にさかのぼる。東大寺建立で有名な聖武天皇が、平城京から近江紫香楽(しがらき・現甲賀市信楽)に移られる際に、奈良との往復路に当たる島ヶ原に、休憩所として行宮(あんぐう)を建て、その行宮を、東大寺を開山した良弁大師(りょうべんたいし)の弟子である実忠和尚(ぢっちゅうかしょう)が聖武天皇の勅願(ちょくがん)を受けて改修し、正月堂(観菩提寺)を建立した。そして、島ヶ原はこの正月堂とともに栄えた。創建の由来から東大寺と深いつながりを持っている。
(http://shimagahara.igaueno.net/)が史実かどうかはともかくとして、平城遷都に伴い新設された「和銅の道」(711年)、木曽義仲を討つため源義経の軍勢が通った「鎌倉街道」「加太越奈良道」明治以後は「大和街道」と名を変えた、古くから大和、伊勢、山城を結ぶ交通の要衝として栄えた歴史を今に伝える。
(同上)という伊勢と大和を結ぶ大和街道の宿場だった。
薬師堂
菊岡如幻という江戸時代の国学者が書いた「伊水温故」という郷土史の本には岩動寺として載っているとか。
観菩提寺の別所とか何らかの関係があったかもしれない。
鸕宮神社
この石灯籠は右上の写真で大きさのイメージが掴めると思います。形も火袋部分が細く、きのこを思わせる。
この神社は観菩提寺(正月堂)の鎮守社で、東大寺二月堂の鎮守社の一つで、二月堂手前の(火の粉をかぶる)広場の良弁杉の隣にぽつんと建っている現若狭神宮寺に渡ってきたインド僧実忠は、その後東大寺に二月堂を建立し、大仏開眼の2ヶ月前から祈りの行法(修二会)を行った。初日に「新名帳」を読み上げて日本国中の神々を勧進したが若狭の遠敷明神だけが漁に夢中になって遅れ、あと2日で終わるという日に現れた。そのお詫びとして、二月堂のご本尊にお供えする「閼伽水」(清浄聖水)を献じる約束をして地面を割ると白と黒の2羽の鵜が飛び出して穴から清水が湧き出した。若狭の「鵜の瀬」より地下を潜って水を導かせたのである。この湧き水を「若狭井」と名づけ、1250年の長きに渡って守り続けられているその井戸より「閼伽水」を汲み上げ本尊にお供えする儀式が、大和路に春を告げる神事「東大寺二月堂のお水取り」である。若狭小浜の神宮寺では、奈良に先立つこと10日、3月2日にお水送りの神事が執り行われる。
環境省「名水百選」(http://www2.env.go.jp/water/mizu-site/meisui/data/index.asp?info=38)
実忠インド人説は
四角燈籠というのは上の由緒記に「拝殿左裏に建てられている」と書いてあるので、どうやら右の写真手前の石灯籠らしい。
増田嘉兵衛(1835-1920)は、由来に書いてあるとおり(伊賀)上野で生まれ、横浜で増田屋商店を創業し砂糖の輸入で財を成した人物。上野町公会堂を寄付し、また、育英資金を増田教導資金として提供した。神社参道の向かい側、島ヶ原小・中学校の門の前に立っている。
岩屋山
農家の敷地内ではないかと思われるような道を登ったところにある。紅い厨子の中に何を祀っているのかは不明。
西念寺
カヤノキ
県下最大のカヤの木と上の観光協会の案内板に書いてある。
上の観光協会の説明にある祈願寺である観菩提寺に対し、葬儀・年回法要など里人の仏事全般を司る菩提寺
にこの寺の位置づけがよく示されている。
観菩提寺(正月堂)
寺の下の道には「山津波災害記念碑」が立っている。
「昭和28年8月14日夕刻からの降雨」は東近畿水害と呼ばれる。「昭和28年8月14~15日 東近畿水害 瀬戸内海より近畿中部に停滞した前線が鈴鹿山脈南部に集中豪雨を降らせ、多数の死者を出す大被害をもたらしました。
」(http://www.kkr.mlit.go.jp/kizujyo/outline/prevent/intro.html)
この後、9月には台風13号も来た。
普門山観菩提寺はかって広国寺だったとか、槙山寺だったとか諸説あるが、一旦荒廃し、島ヶ原党という豪族により鎌倉時代に再興された。島ヶ原党は宇治で敗死した源頼政の部下だった渡辺競の末裔という話もある。
楼門と本堂は室町時代前期のものという。その他の建物もあったらしいが、織田信長の子、織田信雄が伊勢から第二次天正伊賀の乱(1581年)で伊賀を攻撃した時に焼失したようだ。
上の説明に書いてあるようにご本尊は33年毎にしかご開帳されない。2015年11月1日~8日に御開帳された。
楼門は前面は仁王像だが、後ろに立っているのは広目天と多聞天(毘沙門天)という事で、方角的にはそうなのだけど、腰に右手を置き、左手に戟(鉾)を持っている姿は増長天に思える。
本堂は屋根が二重になっているように見えるが、明治時代に正面に向拝所が付けられたため。
楼門の天井絵は消えてしまっているが、痕跡からは龍だろうか?
本堂の正面。三間共に注連縄が張ってある。
本尊は十一面観音としては珍しい六臂(腕が6本)の立像だという。六臂だと普通は如意輪観音になる。
"白洲正子「神と仏、自然への祈り」"展の図版セットの内、「十一面観音巡礼」にこのご本尊の難しい表情をした顔のアップが載っている。神護寺の本尊を連想させられる力強さがある。頭の上の菩薩面の優しさと対照的な顔だ。「平安時代、9世紀の作」とこの展覧会(世田谷美術館)のパンフレット裏面に載っている写真の説明に書いてある。
本堂の裏側にも注連縄が。
ピサの斜塔状態の十一重の石塔。
十一重というのは珍しいけれど十三重塔が削られたわけでもなさそう。
「国家安康」と書かれた小振りな鐘。
西国三十三所巡りはここでは省略。
寺の北西に閼伽井が。
島ヶ原の家
お城のような家が何軒か見える。
島ヶ原宿
上は公民館。
伊賀上野などへは十分に通勤圏内だが、この地域はかなりの高齢化社会。
すれ違う方々と交わす会釈や挨拶の優しさ・穏やかさが印象的。
行者堂
行者堂の役行者像。役行者につきものの前鬼、後鬼はいない。
行者堂、正面の役行者像の右隣には不動明王像。
巨石に彫られた像の前に屋根を付けたという感じがよくわかります。
行者堂左上にあるこれが大師堂だろうか?中は覗けず。
旧島ヶ原観光協会のWebサイトには、ここは信仰の霊地として阿弥陀如来像が刻まれているのは当然だが、島ヶ原ではこの像を大日如来と呼んでいる。江戸中期以後、ここに密教と関係の深い役行者が祀られるようになると、役行者に、よりふさわしい仏として大日如来と称するようになった。
という説明書きがあった。