島ヶ原(2)
観菩提寺(正月堂)
寺の下の道には「山津波災害記念碑」が立っている。
「昭和28年8月14日夕刻からの降雨」は東近畿水害と呼ばれる。「昭和28年8月14~15日 東近畿水害 瀬戸内海より近畿中部に停滞した前線が鈴鹿山脈南部に集中豪雨を降らせ、多数の死者を出す大被害をもたらしました。
」(http://www.kkr.mlit.go.jp/kizujyo/outline/prevent/intro.html)
この後、9月には台風13号も来た。
普門山観菩提寺はかって広国寺だったとか、槙山寺だったとか諸説あるが、一旦荒廃し、島ヶ原党という豪族により鎌倉時代に再興された。島ヶ原党は宇治で敗死した源頼政の部下だった渡辺競の末裔という話もある。
楼門と本堂は室町時代前期のものという。その他の建物もあったらしいが、織田信長の子、織田信雄が伊勢から第二次天正伊賀の乱(1581年)で伊賀を攻撃した時に焼失したようだ。
上の説明に書いてあるようにご本尊は33年毎にしかご開帳されない。2015年11月1日~8日に御開帳された。
楼門は前面は仁王像だが、後ろに立っているのは広目天と多聞天(毘沙門天)という事で、方角的にはそうなのだけど、腰に右手を置き、左手に戟(鉾)を持っている姿は増長天に思える。
本堂は屋根が二重になっているように見えるが、明治時代に正面に向拝所が付けられたため。
楼門の天井絵は消えてしまっているが、痕跡からは龍だろうか?
本堂の正面。三間共に注連縄が張ってある。
本尊は十一面観音としては珍しい六臂(腕が6本)の立像だという。六臂だと普通は如意輪観音になる。
"白洲正子「神と仏、自然への祈り」"展の図版セットの内、「十一面観音巡礼」にこのご本尊の難しい表情をした顔のアップが載っている。神護寺の本尊を連想させられる力強さがある。頭の上の菩薩面の優しさと対照的な顔だ。「平安時代、9世紀の作」とこの展覧会(世田谷美術館)のパンフレット裏面に載っている写真の説明に書いてある。
本堂の裏側にも注連縄が。
ピサの斜塔状態の十一重の石塔。
十一重というのは珍しいけれど十三重塔が削られたわけでもなさそう。
「国家安康」と書かれた小振りな鐘。
西国三十三所巡りはここでは省略。
寺の北西に閼伽井が。
島ヶ原の家
お城のような家が何軒か見える。
島ヶ原宿
上は公民館。
伊賀上野などへは十分に通勤圏内だが、この地域はかなりの高齢化社会。
すれ違う方々と交わす会釈や挨拶の優しさ・穏やかさが印象的。
行者堂
行者堂の役行者像。役行者につきものの前鬼、後鬼はいない。
行者堂、正面の役行者像の右隣には不動明王像。
巨石に彫られた像の前に屋根を付けたという感じがよくわかります。
行者堂左上にあるこれが大師堂だろうか?中は覗けず。
島ヶ原観光協会のWebサイト(http://shimagahara.igaueno.net/index.html)に、ここは信仰の霊地として阿弥陀如来像が刻まれているのは当然だが、島ヶ原ではこの像を大日如来と呼んでいる。江戸中期以後、ここに密教と関係の深い役行者が祀られるようになると、役行者に、よりふさわしい仏として大日如来と称するようになった。
とある。