敏満寺跡
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敏満寺跡と胡宮神社を訪ねて(1)

近江鉄道多賀大社前駅から、鳥居をくぐって絵馬通りに出てもよいし、右手の道を名神高速道路の方に歩いてもよい。
名神高速道路をくぐる手前を左に。ここは高宮からの多賀道。この名神高速道路の手前交差点が多賀大社と胡宮神社への分岐となる。
左へ行く道より若干右(西)にずれる位置に、昔の胡宮神社への参道があったらしい。

敏満寺跡

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高宮池。高宮はここの北西に位置する。高宮の農業用溜め池だろうか?

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敏満寺の想像される位置は、概ね左のハッチング部分。
(奈良から、)水口、日野、八日市、湖東三山を経て、鳥居本、そこから大垣方面(不破関)、湖北、若狭、越へとつながる街道、現在のほぼ国道307号線、に沿っていたと考えられる。恐らく7~8世紀ころから細かいルートや役割は変わっても、この道はあっただろう。


名神高速道路の多賀サービスエリア。サービスエリア内の遺跡は埋め戻されている。

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土塁の遺構があちこちに残っている。

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フェンスで区切られているが、この先は胡宮神社の境内に入る。


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すぐ西側下に名神高速道路がある。車の騒音が絶えず響く。

胡宮神社の本殿。胡宮神社は敏満寺の鎮守社だった。
しかし、青龍山をご神体とする原始信仰の場として寺よりも昔から存在していたと考えられる。

敏満寺跡

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治承四年(1180年)の南都焼き討ちで焼亡した東大寺を再建する東大寺勧進職に任じられた重源は、その時61歳だった。再建が成るまでの延命を祈願したという。この延命石は多賀大社にもある。ここの説明には書いていないが、延命を祈願した時、「莚」の形に虫食いされた柏の葉が落ちてきた。「莚」の字は「廿」+「延」なので、「二十年延びる」と解釈した。再建された後、お礼参りに来た重源はこの石に座って亡くなったという。この話は多賀大社に伝わっているものと全く同じ。
胡宮神社の祭神は、多賀大社と同じイザナミとイザナギ。最初は青龍山がご神体だったとして、その後敏満寺の鎮守社だった時の祭神はわからないが、いつしかイザナミとイザナギに変わっていた事になる。鎌倉・室町時代の敏満寺と多賀大社の関係は、おそらく敏満寺が優位だっただろうが、、敏満寺が焼亡すると、多賀大社が優勢となり、江戸時代には胡宮神社は多賀大社の奥宮、後に別宮とする扱いを受けるようになったらしい。その間には、両者の間では争論もあった。多賀大社は別当寺の不動院のコントロール下にあり、更に敏満寺の塔頭だった般若院と成就院が多賀大社境内にあった。その般若院と成就院が、胡宮神社を実質的にコントロール下においていた福寿院と胡宮神社を巡り勢力争いをしている。福寿院の主張には敏満寺を継承する立場として、多賀大社への対抗心を感じさせる。この多賀大社と胡宮神社の関係については、多賀大社はイザナギで胡宮神社はイザナミとするという説もある。この説が出てきた背景はよくわからないが、喧嘩両成敗のような解釈という感じもする。

敏満寺跡

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白土塀には五本の横線が入っている。

敏満寺跡

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本殿の後の熊野神社。

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とにかく、まず磐座まで登ろう。