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敏満寺跡と胡宮神社を訪ねて(2)

磐座へと登る

磐座が「青龍山の頂上にある」というのは、少々不正確。

多賀町中川原から望む青龍山。
三上山に比べると平らだが、きれいな三角形の神体山。


青龍山

青龍山


青龍山

青龍山


左に行くと磐座。右に行くと一旦下ってから青龍山頂上へ行ける。

磐座に到着。

青龍山

青龍山


磐座


青龍山

青龍山


青龍山

青龍山


御池。ささやかだが、きれいな水だった。

青龍山

青龍山


本殿裏の末社達。

胡宮神社本殿と神仏分離の時に建てられた塀で隔てられた寺域。

敏満寺跡

敏満寺跡


史料に現れる敏満寺

 西暦 和暦年    和暦月  出来事出典
751年天平勝宝三年近江国水沼村墾田地図東大寺文書
1125年天治二年平等院長吏坊政所下文案
1178年治承二年八月兵火
1179年治承三年十一月兵火
1183年寿永二年三月兵火
1184年元暦元年十二月盗難
1186年文治二年ニ月本堂の木作り
1187年文治二年十月本堂(七間四面)落慶
1187年文治三年重源 藤原伊経筆の額を施入
1198年建久九年重源 仏舎利寄進
1205年元久二年重源 敏満寺衆徒への書状
1205年元久二年三月ニ町寄進
1210年承元四年正月ニ町寄進
1225年嘉禄二年九月五町寄進
1233年天福元年藻壁門院 難産がもとで死去
1235年文暦二年仏舎利相承系図(1264年文治元年追記)
1246年寛元四年閏四月一町寄進
1264年文治元年比丘尼如理、沙弥玄祐が舎利奉納
1265年文永二年極楽寺免田後嵯峨上皇院宣
1275年建治元年十月異国降伏の祈祷
1284年弘安七年九月亀山院 祈願所
1284年弘安七年十一月亀山院 祈願所
1284年弘安七年法行寺 法行院と改める
1309年延慶二年二月太政官牒 祈願寺 阿闍梨三口
1309年延慶二年太政官牒
1329年元徳三年当寺堂塔鎮守目録
1330年天徳二年大尼子郷地頭代盛元と相論
1330年元徳二年新熊野十二所、白山権現、天満天神
1335年建武二年十二月高師直 不可致乱入狼藉
1336年建武三年十月足利直義 感状
1353年文和二年後光厳天皇宿所
1369年応安二年観音護国寺山臥衆中請文
1418年応永二十五年足利義持 御判御教書
1423年応永三十年四月足利義持 御判御教書
1462年寛正三年十二月将軍家御教書二通
1466年文正元年十二月大乗院寺社雑記
1489年長享三年寺域の漏野を「五三昧所」とすることが綸旨で認められる。勝田至『日本葬制史』(吉川弘文館 2012/04)より孫引き
1503年文亀三年般若院 多賀大社の社僧へ
1560年永禄三年浅井長政に攻められ800人戦死
1562年永禄五年九月浅井長政の兵火で焼亡新谷家文書
1572年元亀三年織田信長と争い廃寺
1573年天正元年福寿院再建
1615年元和元年井伊直孝 銅300疋寄進
1625年寛永二年住持の徳祐が盗賊に殺される
1625年寛永二年福寿院 本堂跡西側から東側へ新造
1672年寛文十二年観音堂普請奉加帳ほか
1784年天明四年大日堂道具類盗難
1798年寛政十年諸国勧進のための通行手形
1801年享和元年諸国勧進のための通行手形
1838年天保九年二月田地譲り状