徳島市(1)
徳島県立文書館
公文書を保管するので「ぶんしょかん」と読むかと思いきや、古文書の読みで「もんじょかん」という。旧徳島県庁の建材を一部流用したということで、外観、2階への階段と天井照明などに昭和初期の公共建築物の雰囲気がある。古文書の読み方講座などが行われ、2階には展示室がある。
天神社
徳島に狸は欠かせない。
眉山(びざん)登山
ロープウェイは施設点検のため運休中ということで、天神社北側から徒歩で登る。
別格劔山本宮
ロープウェイ山頂付近
右岸に若干の高水敷があるものの、ほぼ流水で満たされた堤防間が1kmある吉野川河口付近。この眺めは日本ではなかなか見られないと思う。因みに淀川の河口部分は約800m、利根川でも約950m。
ヴェンセスラウ・デ・モラエス(1854~1929)は、ポルトガル神戸・大阪副領事館の初代領事代理、領事館へ昇格後に初代領事。引退後に徳島市へ移住し日本を紹介する著作を執筆した。ポルトガルの方を向いて立っているという。東の麓にモラエス通りがある。
忌部神社へ
終点の神武天皇の銅像は天神社からの登山道を右に折れた先にある。
左の看板には神武天皇銅像前広場の南端(当所)から始まり、勢見山に終る
と書いてあるのだが、ここが勢見山。朱書きの「現在地」はこの位置を示しているようだが。
この眉山東山腹をトラバースする新四国西国霊場巡りの道は八阪神社から更に石段を上った先を右に行ったところにある神武天皇銅像で終わる。
忌部神社
「忌部神社所在地論争」で知られる神社。『延喜式』神名帳で名神大社とされる「阿波国麻殖郡(おえぐん)忌部神社」は所在地不明だが、明治五年に吉野川市山川町忌部山にある忌部神社が国幣中社とされた。しかし、つるぎ町貞光の五所神社が『延喜式』神名帳の忌部神社であることを主張し所在地論争か起きた。明治一八年に吉野川市山川町忌部山の忌部神社をこの徳島市二軒屋町に遷座させることになり、明治二五年に社殿が完成した。五所神社は、その摂社とされた。但し、吉野川市山川町忌部山の忌部神社も現存する。
『日本書紀』のアマテラスが磐戸に幽居してしまい諸神が困ったとき、一書では、アメノコヤネに祈ってもらった。アメノコヤネは掘天香山之眞坂木、而上枝懸以鏡作遠祖天拔戸兒石凝戸邊所作八咫鏡、中枝懸以玉作遠祖伊弉諾尊兒天明玉所作八坂瓊之曲玉、下枝懸以粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿、乃使忌部首遠祖太玉命執取
、廣く厚く稱辭祈申し上げると、アマテラスはその声を聴いて頃者人雖多請、未有若此言之麗美者也。
と磐戸を少し開いて(外を)窺ったとしている。『日本書紀』にはもう一箇所、天日鷲が登場する場面がある。本文ではニニギが、コノハナサクヤヒメを一晩で妊娠させたのを信じられないと言うのでコノハナサクヤヒメは怒って無戸の室に入り妾所娠、非天孫之胤、必當𤓪滅。如實天孫之胤、火不能害。
と放火燒室したが、三人の子が産まれたという部分である。一書だが、本文の内容とは無関係にオオモノヌシの話がある。時高皇産靈尊、勅大物主神〝汝若以國神爲妻、吾猶謂汝有疏心。故今以吾女三穗津姬、配汝爲妻。宜領八十萬神、永爲皇孫奉護。〟乃使還降之。卽以紀國忌部遠祖手置帆負神定爲作笠者、彥狹知神爲作盾者、天目一箇神爲作金者、天日鷲神爲作木綿者、櫛明玉神爲作玉者。乃使太玉命、以弱肩被太手繦而代御手、以祭此神者、始起於此矣
というオオモノヌシ祭祀の起源譚となっている。この文脈自体も、前後の話との流れも、不自然でいかにも継ぎ接ぎな部分となっている。ただ、これらから忌部氏が紀伊水道を挟み紀伊と阿波の両側で木綿の生産に関与していたことがうかがえる。
『延喜式』の「神祇七 践祚大嘗祭」に、阿波國忌部所織麁妙服
*2とあり、大嘗祭では、阿波國忌部で織られた麻織物が、参河國の繪服と共に盛殿(もりとの・もりどの。神に捧げる供物を調える所[広辞苑第六版])に収められる。
八幡神社(富田浦八幡宮)
国瑞彦(くにたまひこ)神社
徳川家康が東照大権現という神号を得たのにならって、11代藩主の蜂須賀治昭が、初代藩主家政を祀ろうと吉田神道の卜部良連から国瑞彦明神という神号を得て、国瑞彦神社が造営された*1。
- *01 児玉幸多監修・編集『徳島市史 第四巻 教育編・文化編』徳島市教育委員会 1993
- *02 黒板勝美/編輯『新訂増補 国史大系 第二十六巻』交替式・弘仁式・延喜式吉川弘文館 1965