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敏満寺跡と胡宮神社を訪ねて(3)

 

大日堂と観音堂の間には数々の石仏が。


本殿に向かって右側の一角に敏満寺の仏像を安置した大日堂と観音堂がある。
敏満寺は、16世紀後半に、浅井長政 and/or 織田信長に攻められ、再興されることはなかった。残った仏像などは残存した僧坊などに移されたらしい。大日堂は徳川家により建てられ、本尊の大日如来はここに戻された。また、社務所庭園のある建物は江戸時代は福寿院で、別当として胡宮神社を配下においていた。明治の廃仏毀釈で胡宮神社と福寿院の関係は逆転しただろうが、この時期に近隣の各所にあったと思われる仏像などは更に散逸しただろう。その詳細はわからない。とにかく、結果として幸いこれらの建物や中の仏像は維持されたので、塀で分けられているとは言っても神社の本殿の隣に大日堂と観音堂があるという珍しい形態になっている。

敏満寺跡


大日堂。敏満寺本尊の大日如来像を安置する。
木造の大日如来像の胎内仏だったという像高13.7cmの小振りな像。胴が細くて柔和な感じ。快慶の系統を思わせる鎌倉時代の作という。

敏満寺跡

敏満寺跡


敏満寺跡

敏満寺跡


観音堂。鎌倉時代作という石に線刻の楊枝観音さま。

敏満寺跡

敏満寺跡


敏満寺跡

敏満寺跡


社務所庭園。庭園はともかく、建物(旧福寿院)が放置状態なのが悲しい。

敏満寺跡

敏満寺跡


南のこちらが胡宮神社への正しい入り口。
仁王門から本堂への道でもある。

敏満寺跡


敏満寺の面影を求めて
敏満寺の創建時期はよくわからないが、三修(829年~899年か900年)が修行したとか、その弟子の敏満童子が開いたとかいう伝承もあり、平安時代の始め、9世紀には存在していたようだ。
三修は『今昔物語集』巻二十第十二「伊吹山三修禅師'得天宮迎語」で、阿弥陀如来が来迎し往生したと思い喜んだが、弟子に山中の杉に縛られているのを発見され、実は天狗(天宮)に騙されたとわかったという情けない話が載っている僧。

敏満寺跡


敏満寺跡

敏満寺跡


敏満寺跡

敏満寺跡


敏満寺跡

敏満寺跡


敏満寺跡

後光厳天皇行在所跡の碑
まさに、この位置にあったのかは分からないが…


敏満寺跡

敏満寺跡


青龍山の西の麓のあたりに、奈良時代に水沼庄があったことが正倉院文書から明らかになっている。この荘園が敏満寺の創建と関連がありそうだし、後の重源との関係にもつながっていそうだ。

敏満寺跡

敏満寺跡


敏満寺を有名にしたものの一つに、重源が送った仏舎利寄進状と仏舎利を収めた金銅一尺三寸の五輪塔がある。

敏満寺跡

敏満寺跡


敏満寺跡

敏満寺跡


敏満寺跡

敏満寺跡


敏満寺跡

敏満寺跡


敏満寺跡


敏満寺仁王門跡は名神高速道路の真下にある。寺が南面しているので本堂から南に下った所にあるという事かもしれないが、創建時の主要道がこの傍を通っていたとも推察できる。

敏満寺跡

敏満寺跡


敏満寺跡

敏満寺跡


敏満寺遺跡石仏谷墓跡

石仏谷
この石仏群は国の史跡に指定されている。
中世の墓地だったところ。

敏満寺跡


敏満寺跡

敏満寺跡


敏満寺跡

敏満寺跡


猿のような動物が逃げてゆく。
フェンスの中にも入り込んでいる。

敏満寺跡


敏満寺跡

フェンスの外側にも石仏や仏塔がたくさんある。
猪が荒らすとか、勝手に持ち帰る人がいるらしいといった話を聞いた。


敏満寺跡

敏満寺跡


敏満寺跡

敏満寺跡


敏満寺跡

削平地らしい地形。
ここらにも僧房があったことは古図からもわかる。