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忍辱山圓成寺(にんにくせんえんじょうじ)

圓成寺

JR奈良発の奈良バスで近鉄奈良から登大路を東へ行き、国道369号線で北上し、奈良阪の方へは行かず、東に柳生方面を目指す。
忍辱山圓成寺の創建は万寿三年(1026年)命禅(みょうぜん)の開基というのが妥当とする説が専らだが、他に、奈良時代後期、鑑真の弟子虚瀧(ころう)や、寛遍(かんぺん)によるという伝承もある。寛遍は大僧正まで昇りつめた12世紀の真言宗の僧で、圓成寺の再興に努めたのは確からしい。
この寺を有名にしているのは、左の写真の奈良大和路カレンダーのポスターに横顔が写っている運慶20代の作という大日如来坐像。


国道369号を挟んで駐車場と御食事処「里」があるこちらが本来の入口なのだろう。

名勝に指定されている庭園。
平安時代の庭園の雰囲気は、どこかのんびりしている。


圓成寺

圓成寺


圓成寺

圓成寺

大和名所図会に描かれている圓成寺を参照すると、本堂等がある一段高い平地の東の傾斜下にも僧房らしき建物が描いてある。バス停のある国道に面したこの平地(右の写真)も、かつてはお堂が建っていたと思わせる広さだ。

圓成寺


圓成寺

圓成寺


楼門の下を通りすぎて、

この石段を上がる。


圓成寺

圓成寺


本堂が見えるが、

まずは多宝塔の中の大日如来を鑑賞。
どこか快慶と通底するような優しい優美さを感じる。この後、東国の武士との付き合いで肉体派に変化していったという事だろうか。


圓成寺

圓成寺


本堂(阿弥陀堂)

文正元年(1466年)、応仁・文明の乱の兵火で焼けてしまった本堂を、1112年(天永三年)創建の最初の建物をそのまま再建したもの。
向拝左右に舞台があるのが面白い。昭和の修理でかなり手直ししたようだが、妻入り入母屋造りの春日造りの両側に廂が付いた寝殿造り風と変わった趣向だが、屋根の線が美しい。

本尊の阿弥陀如来坐像。平安時代後期の定朝様の優しさ。
天永三年(1112年)迎接(こうしょう)が二代目の本尊として祀った。光背の透かし彫りも素晴らしい。
運慶の大日如来の陰に隠れがちだが、素晴らしい仏像だ。


圓成寺

圓成寺


圓成寺

圓成寺


圓成寺

本堂の内部がまた素晴らしい。須弥壇の四本の柱には、聖衆来迎図が描かれている。
法界寺の阿弥陀堂を思わせる。こちらの方が少し小振りな広さだが、柱の絵などの状態はこちらの方が良いように感じた。
あまり目立たないが、厨子の四隅の四天王像が、これまた優品。広目天像が特に好き。康勝作?かもしれないとのこと。
本尊を収めた厨子の後ろ(左の写真)には位牌棚があり、板壁に描かれた絵は蓮池に白鷺の絵というが、劣化が進んでよくわからない。


春日堂と白山堂

安貞二年(1228年)、「春日大社御造営の際、当時の大社神主藤原時定卿が旧社殿を寄進した全国で最も古い春日造社殿」。
大正五年(1916年)の修理の際、春日社から明応三年(1494年)の小木札と、永正十五年、天正十三年、寛永十二年、承応二年、元禄六年、延亨五年、文化十二年、慶応三年の八枚の棟札が見つかった。社殿も含め国宝。

圓成寺

圓成寺


宇賀神本殿

宇賀神は弁財天の頭の上に居るのかというと、それだけではないようだ。筆の神様。唐破風の向拝が面白い。

圓成寺

圓成寺


鎮守社(春日堂と白山堂)の拝殿

延宝三年(1675年)に造られた。


圓成寺

圓成寺


鐘楼


圓成寺

寛文七年(1667年)に造られた。


護摩堂

圓成寺

圓成寺


圓成寺

圓成寺


楼門。文正元年(1466年)、応仁・文明の乱の兵火で焼け、応仁二年(1468年)に再建された。
庭園の方から石段を上がることは出来ない(通行止め)だが、本堂を背にして内側から楼門ごしに庭園を見るのもなかなか良い眺めだ。

圓成寺

圓成寺


圓成寺

圓成寺


 

花肘木が、なかなかお洒落。


圓成寺

圓成寺


圓成寺

圓成寺


庭園から本堂、多宝塔の方に上がらないで、そのまま北へ歩いた右側に十三重塔がある。


圓成寺

圓成寺


更に先に進んだ右側には、かなり広い平坦地がある。上記『大和名所図会』を見てもこの場所には何も書いていないようだが…。
隅は墓地になっているようだ。

圓成寺

圓成寺


圓成寺

池の南側には石碑などがまとまって立っている。
板碑、宝篋印塔、お地蔵さんと多彩に揃っている。


圓成寺

圓成寺


圓成寺

圓成寺