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泉涌寺

楊貴妃観音堂。
建長七年(1255年)に、中国からこの楊貴妃観音像を請来したと書いてある湛海は、生駒山の宝山寺を中興した江戸時代の湛海とは別人らしい。
1255年の中国は北の金は既にモンゴルによって滅亡しており、南宋はなんとかあと20年ほど持ちこたえるといった不安定な時期で、よくぞ行ったものだと思う。
楊貴妃観音だから褪色したりしていては、いけないのかもしれないが、秘仏だった為もあってか、木肌がきれいで、彩色もかなり残っている。確かに木肌の色など、日本製ではなさそうな感じがする。



仏殿
外観は屋根が重そうな建物。
真言宗の寺だが、一重裳階、内部の土間、火灯窓(花頭窓)など完全に禅宗の様式。鎌倉時代からこのような建物であったのかはわからない。現在のほとんどの建物は江戸時代の再建。
須弥壇の中央に釈迦、両脇に弥勒(如来の姿)、阿弥陀の三尊。運慶作?
建保六年(1218年)に俊芿(しゅんじょう)が宇都宮信房から荒廃していた前身寺院の寺域を寄進され、伽藍は嘉禄二年(1226年)頃に完成したという。運慶は貞応二年(1223年)には亡くなっているので、多分、直接手掛けることはできなかったはず。時期的に、慶派の工房の人々による作品の可能性はある…。


涅槃会の日だったので、仏殿へ法要に向かわれる僧侶達。
涅槃会の三日間は仏堂の本尊の前に大きな涅槃図が架けられている。古澗明誉(こかんめいよ)という江戸時代(1653年~1717年)の僧が描いたもの。法隆寺や大和郡山の永慶寺にも似たような図柄の涅槃図があるらしい。輪郭線がはっきりしているためか、ポップな印象がする。


古今墨蹟鑒定便覧(ここんぼくせきかんていべんらん)』(河喜多真彦著 川喜多真一郎編)三巻のうち、ニ巻十帖裏
前表紙の題箋には「書画 医家 鑒定便覧」とあり、画家、書家、医家の印章を収録した本。
僧古磵 名ハ明誉虚舟ト号ス 初メ平安浄福寺ニ住シ 夫ヨリ洛報恩寺ニ移ツテ隠居シ 又東山西岩倉ニ住ス 後大和ニテ歿ス 初狩野永納ニ学ヒ 後格ヲ変シ 好ンテ大黒天ヲ画ク 又仏像ニ長ス 寂スル年 享保二年五月廿三日 六十五
浄福寺、報恩寺ともに(江戸時代には)浄土宗の寺で、古澗明誉は浄土宗の僧侶だった。
(国立国会図書館デジタル化資料:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557764)


舎利殿
楊貴妃観音像と同様に、俊芿の弟子の湛海が南宋から持ち帰った舎利塔を納める建物。普通、仏舎利は塔に納めるものだが、禅宗では舎利殿に納めるようだ。代表的なのは金閣(鹿苑寺)。
下の左右の写真の説明にあるように、能『舎利』の舞台となったところ。
足疾鬼(そくしっき)(捷疾鬼)の執心が仏舎利を奪い、天井を突き破って逃げるのを韋駄天が追いかけて取り戻す。釈迦が涅槃の時に足疾鬼が仏舎利を盗んだが韋駄天に取り戻されたという話の後日談になっている。



泉が湧くという寺号発祥の泉。水屋形に覆われているのでよく見えないが、地形的に水が湧きそうな場所ではある。
前身寺院は仙遊寺という名称だったらしく、漢字を変えただけの寺号変更。
俊芿は正治元年(1199年)南宋に渡り、禅、律、天台教学を学び、建暦元年(1211年)に帰朝した。


宝塔と歌碑。
清少納言が女房として仕えた一条天皇の中宮定子(後に皇后宮。藤原道長の謀略とも。)が埋葬された鳥部野陵(とりべののみささぎ)の近くで、また、父の清原元輔の山荘があったので、晩年はこの月輪辺りに隠棲したという話がある。従って、ここに、こういうものがあってもおかしくはないのだが、いつ、誰が立てたものなのやら?


御座所にて。一生懸命落ちないように掴まっているという感じが可愛い。



明治の初め、神仏分離を進めようとした神道原理主義者達は、神道の頂点に据えたい天皇が歴代に渡り仏教に帰依していたという事実に頭を悩ませたであろう。寺院側も神道側からの要求に対して相当に悩まされただろうが、仁和寺や泉涌寺では寺域の中に塀で囲った「御座所」「御殿」を作って辻褄を合わそうとしたようだ。
泉涌寺では、尊牌(位牌)は霊明殿という専用の建物に置かれている。「御座所」は庫裡とつながっているが、これは休憩所の位置付けだから、それでもよかったのだろう。
御座所につながって白い土蔵のような海会堂(かいえどう)がある。神仏判然令によって京都御所の黒戸と言われた建物を移築したもので、歴代天皇、皇后、皇族方の御念持仏30数体が祀られている。(http://www.mitera.org/kaikaiden.php)