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即成院


 創建は橘俊綱(992年~1074年)とされている。この人は、藤原道長の子で宇治の平等院を造立した藤原頼通の子だが、母は正室ではなかったので橘俊遠の養子となった。伏見桃山(京都市伏見区泰長老?)にあったが、豊臣秀吉の伏見城築城に際して、伏見区深草大亀谷に移された(1594年)。明治初期の廃仏毀釈で1872年に廃寺となったが、仏像を引き取った泉涌寺のそばの現在地に1902年に泉涌寺塔頭の法安寺と合併する形で再興され、1941年に寺号も復活した。
 伏見宮貞成(さだふさ)親王の『看聞日記』永享三(1431)年七月十五日条に「今夜卽成院念佛躍見物。女中男共相伴。異形風流有其興(塙保己一/編『続群書類従 補遺二 看聞御記 上』続群書類従完成会 1980 訂正3版 604~605)。」とあり、この寺で盆踊りの古態がと言える念仏踊りが、この時期に行われていたことが興味をひく。
このように、このお寺は色々ひどい目にあいながら伏見から移り、この地に安住した歴史があるのだが、引越しが多かった割りに見るべきものが多い。

  1. 本尊の阿弥陀如来像と二十五菩薩坐像
    二十五菩薩坐像の内の半分ほどが後世のものだそうだが、柔和な感じの阿弥陀如来像を含め定朝様。死ぬときにこういう形でお迎えに来てほしいという浄土信仰をそのまま形にしたものとして珍しい。現在は阿弥陀様は南東を背にして北西を向いていて、西から来迎=東を向いているという配置になっていないが、当初はそうなっていたのではないだろうか?

  2. 現在は10月第3日曜日に行われる二十五菩薩お練り供養という行事で知られる。
    上記の二十五菩薩が本堂(極楽)から境内の地蔵堂(現世)まで出向き衆生を極楽まで導く様を"見える化"した行事。
    練供養としては当麻寺の練供養会式が有名で、この寺では江戸時代からという事 なので各地に広まった練供養の一つということだろうが、現在でも続いている貴重な行事。

  3. 那須与一の墓
    巨大な五輪塔。転々とした寺で、本当にこの墓をその都度移してきたのかは怪しい感じもするが、個人の墓にしては大きすぎる宝塔。

戒光寺


本尊の運慶と湛慶親子共作という高さ約5.4mの釈迦如来像は見事なもの。
御陵衛士の墓所という非公開の墓所があるらしいが、個人的に幕末ものには無関心なのでパス。


善能寺

洛陽三十三所観音霊場第十八番札所だが、この巨大な"なまこ"のような根に驚かされた。



来迎院


来迎院というと大原の方を思い浮かべてしまうが歴史は古い。最近は大石内蔵助が密談に使ったという茶席含翠軒が売りの感じ。
空海が唐で感得した三宝荒神像を安置して来迎院を開創したというのが寺伝だが、布袋さんがどういう事情で追加されたのかは不明。用済みなのかどうかわからないが、布袋さん満載の宝船はユーモラスな眺めだ。




雲龍院

「悟りの窓」。
禅宗寺院ではこの種の丸い窓は珍しくもないけど、禅宗のお寺固有ということでもないようだ。