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安曇川町(1)

ほとんど「継体天皇伝承地めぐり モデルコース」に沿って、安曇川駅でレンタサイクルを借りて巡った。(2013/06/22)
地域自治体としては、地元の生まれで、死の少し前にここに「藤樹書院」をひらいた中江藤樹を郷土の偉人として推したかったのだろうが、陽明学者では集客力は弱そう。古代史の謎の方が高齢者中心かもしれないが関心を集められるだろう。

南市東(みなみいちひがし)遺跡

『日本書紀』巻第十七の継体天皇即位前紀によると「自近江国高嶋郡三尾之別業(なりどころ)」となっており、その「三尾之別業」の場所は、湖西線安曇川駅の東のこの南市東遺跡や駅の北西の下五反田遺跡あたりとか、三尾里から鴨稲荷山古墳あたりなどと推測されている。
商業・住宅地になっている南市東遺跡も、田圃になっている下五反田遺跡も弥生時代から5世紀頃(更に鎌倉時代まで)に栄えた集落跡で、出土品から朝鮮半島との交流があったことがわかる。朝鮮半島からの渡来人が住んでいたのかもしれない。

南市東遺跡

南市東遺跡


萬木公園で遺跡の雰囲気を味わう。

南市東遺跡

南市東遺跡


南市東遺跡

南市東遺跡


三重生(みおう)神社

継体天皇の親である彦主人王(ひこうしおう)振媛(ふりひめ)が祭神。

継体天皇(『日本書紀』による在位:507年~531年)は、父の死後、母の故郷の越前国高向で育てられ、武烈天皇の後継がいなかったため迎えられて即位した。
誉田天皇(応神天皇)五世孫とされているが、本当に血筋としてそれ以前の天皇とつながっているのかは確認のしようがない。即位しても、継体天皇元年の樟葉宮から始まって、継体天皇五年の筒城宮、継体天皇十二年の弟国宮と木津川-淀川沿いに遷都を繰り返し、崩御の直前に大和にあったらしい磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に入るという不可思議な動きをしている。つまり、大和に継体天皇を正式な天皇としてなかなか受け入れようとしなかった勢力があったのではないかという想像がされる。
そういう謎の多い天皇なので、古代史に興味のある人達にとって大きな関心事の一つとなっている。
能では「花筐( はながたみ)」の子方が継体天皇。

三重生神社

三重生神社


三重生神社

三重生神社


三重生神社

右上の説明の「彦主人王は応神天皇の五世の孫」は、『日本書紀』の継体天皇についての記述と一代ずれている。
細いながらも長い参道を歩いて境内に入ると、こざっぱりした印象。
5世紀後半のこの地域の有力者を祀る神社を、いつ、誰が創建したのかはわからないが、式内社だから、平安時代には存在していたことになる。


三重生神社

三重生神社


正法寺

曹洞宗のお寺で、寺院としては左下写真の建物だけだが、一帯は三重生城の跡。西側の墓地になっている盛り土は土塁の遺構。
川副氏の城だったらしい。川副氏は京極氏系の尼子氏となんらかのつながりがあったのか、尼子氏が出雲に行った時、共に出雲へ移り家臣として仕えた。

正法寺

正法寺


正法寺

正法寺


正法寺

正法寺


安産もたれ石

ここらは三尾神社の旧跡。継体天皇を出産する時に母の振媛がもたれたとされる。

安産もたれ石

安産もたれ石


安産もたれ石


田中王塚古墳(彦主人王(ひこうしおう)御陵)

彦主人王御陵

継体天皇の父、彦主人王の墓と伝える宮内庁管轄の陵墓参考地。直径約58mの二段築成の帆立貝式古墳で、築造時期は5世紀後半と推定される。


彦主人王御陵

彦主人王御陵


彦主人王御陵

彦主人王御陵


田中36号墳

直径24mの円墳で横穴式石室。2007年に市道新田中野線道路改良工事に伴う発掘調査が高島市教育委員会によって行われ、調査報告書によると確認された横穴式石室は、遺骸を安置する空間を玄室の奥に設けるなど類例が確認されない特異な構造でした。36号墳築造時期は、出土土器から6世紀後半と考えられます。とのこと。(高島歴史民俗資料館にあったリーフレットによる。)

田中36号墳

田中36号墳


田中神社

元々は「牛頭天王社」。明治初期の神仏分離で他の多くの牛頭天王社と同様に主祭神はスサノオにされた。
創建の時期は不明だが、かなり古い神社らしい。

田中神社


田中神社

田中神社


田中神社

田中神社


田中神社

田中神社


安産もたれ石のところに三尾神社は「お社は大正四年に田中神社境内に遷座」と書いてあったので、これら境内社の一つだろうと見て回ったけれど、見当たらない。後で調べたら右端の「安田社」に合祀されていた。

田中神社

田中神社


田中神社

田中神社