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安曇川町(2)

遍照山玉泉寺

玉泉寺

玉泉寺


高島市安曇川町田中にある天台真盛宗のお寺。
行基開基という伝承で本尊は阿弥陀如来。お寺でいただいたパンフレットには「運慶作と伝わる」と書いてあるが…。
元々の地名は「三田」で、これは「弥陀」を、畏れ多いので字を変えたものだとの事。

玉泉寺

玉泉寺


玉泉寺

鐘楼は昭和九年の室戸台風で倒壊し、昭和十三年に再建されたもの。軒端を見るとわかるように扇垂木で、組物や虹梁も本格的。若狭の宮大工の作という。頭でっかちで、相対的に細く見える柱で支えきれるのか心配になってしまうが、優美な建築だと思う。
鐘楼の鐘は元文四年(1739年)鋳造されたもので、戦時供出を拒んで守られた。


玉泉寺

本堂と向き合って並んでいるのは、左から
無量寿如来(阿弥陀如来):この寺で最古の石仏、
石造宝塔、
石造五層の塔、
石仏、
石造宝塔:田中神社にあったもの?


 

石造卒塔婆


玉泉寺

玉泉寺


五智如来:左から、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、弥勒菩薩、釈迦如来。室町時代の作だそう。

玉泉寺

玉泉寺


墓地へ上がると石の鳥居(三昧鳥居)。結界を示すのだとか。

土木工事などで掘り出された石仏がここに集められている。


玉泉寺

玉泉寺


六観音。お地蔵さんが混じっているのでわかりにくいが、左から馬頭観音、十一面観音、如意輪観音、不空羂索観音、千手観音、(六地)、聖観音だそう。これらも室町時代の作。

玉泉寺

玉泉寺


玉泉寺

玉泉寺


 

引導場の台は、石塔の基礎部分のようだ。


玉泉寺

玉泉寺


玉泉寺

墓地から下った川(水路?)の傍にある阿弥陀如来石像。これも室町時代の作らしい。


町石

町石

どこまでの距離を示しているのかがわからない、ぽつんと一つだけ室町時代から立っているという町石。
普通は、寺社までの道に一町ごとに立っているものなので、上寺にあった松蓋寺までの町石だろうか?
松蓋寺は、この道を更に南西へ行った安曇川町田中の上寺にあった延暦寺西塔の末寺で、その場所には後に田中城が築かれた。恐らく16世紀に廃寺となったと考えられる。


石敢當(いしがんとう)

石敢当

石敢當は中国からもたらされた魔除けで、琉球列島、南西諸島、奄美諸島、九州などに多い。
前漢の時代に史游という人が書いた『急就篇』という教科書のような本に人名の例として載っているそうだ。ただし、実在の人物ではなさそうだ。それが、道路の突き当たりのような場所に建てられるようになったのは「敢當」が、「当たるところ敵なし」といった意味だったから?
なぜ、近江国にこういうものがあるのかは、わかっていないようだ。
この石敢當は、案内板によると、右側に「すぐ北国街道」、左側に「すぐ京大津道」と書いてあるそうで、道標を兼ねている。


箕島(みしま)神社

延喜式神名帳に箕嶋神社として載っている式内社(小社)。三尾里の集落の北に位置する。祭神はオオヤマツミなのか事代主なのか?この二神のいづれかが祭神という点では、あちこちにある三島神社と同系統と言える。

箕島神社

箕島神社


胞衣塚

継体天皇の胞衣を埋めたという場所。

胞衣塚<

胞衣塚<


胞衣塚<

胞衣塚<


安閑神社

三尾里にある安閑神社(今津にも同名の神社があるらしい。)。継体天皇の子、安閑天皇を祀る。継体天皇崩御の年は、『日本書紀』の継体天皇二五年(辛亥)(531年)に「〈或本云。天皇、二十八年歳次甲寅崩。而此云。二十五年歳次辛亥崩者。取百済本記為文。(中略)又聞。日本天皇及太子・皇子、倶崩薨。由此而言。辛亥之歳当二十五年矣。後勘校者、知之也。」と、甲寅(534年)という説も載せている。また、『百済本記』には天皇、太子、皇子が倶に亡くなったいう記述もある。そのため、継体天皇・安閑天皇・同母弟の宣化天皇と、安閑天皇の異母弟の欽明天皇との間に抗争があったのではないかという「辛亥の変」説がある。
後の時代に、安閑天皇は、『日本書紀』に「広国押武金日天皇」と書かれており、この「金日」から金峯山寺蔵王堂で知られる蔵王権現と同じという神仏習合?的解釈がされるようになった。

安閑神社

安閑神社


ここが知られているのは、なんと言ってもこの「神代時代の石」。ヲシテ文字とも違う。文字というよりも文様に見えるが…

安閑神社

安閑神社


鶴塚

鶴塚

鶴塚


鶴塚

たしかに大きい。
鶴の伝承もあるが、この地にあった満願寺の鎌倉時代の宝塔。高さ4mあまりで滋賀県最大とのこと。
多宝如来と釋迦如来が彫ってあるのは、妙法蓮華経二十八品の第十一見宝塔品による。
大津の長安寺「牛塔」は高さ3.3mだそうだが、塔身が太いので、存在感や容積では「牛塔」が勝っている感じ。
制作年がはっきりする刻銘のある宝塔で滋賀県最古のものは、大吉寺の「頼朝供養塔」。これは建長三年(1251年)と彫ってあるらしいが、高さ1.57mで「牛塔」、「鶴塚」に比べると小さい。
三重生神社の石造宝塔は高さ2.16mとのこと。
(この項の参考資料:
瀬川欽一『近江 石の文化財』2001年 サンライズ出版。)


天皇橋

天皇橋

随分仰々しい名前の橋だが、
この辺りこの橋のほかにも、「てんのう」と名のつく田や川や坂があります。これは、近くに、継体天皇に関係の深い鴨稲荷山古墳や明治の始めまで天王社とも称したという志呂志神社などがあるため、この名前で呼ばれて来たものと思われます。
昔は「天王橋」だったとのことで、それなら牛頭天王社へ参拝時に渡る橋の名前として素直に理解できる。


志呂志神社

志呂志神社

志呂志神社


志呂志神社

天皇橋の説明だと、ここは「天王社」だった。普通、天王社は牛頭天王を祭神としていたと考えてよいはずだが、現在の祭神はスサノオではなくニニギとタマヨリヒメになっている。


鴨稲荷山古墳

南市東遺跡や下五反田遺跡からは渡来系の影響がうかがえるが、鴨稲荷山古墳の石棺は二上山の凝灰岩製で、大和との密接な関係もうかがえる。
高島歴史民俗資料館で入手したパンフレットによると6世紀前半に造られた全長約60mの周濠のある前方後円墳で横穴式石室にこの家型石棺が安置されていたという。
副葬品の配置が、斑鳩にある6世紀後半に造られた円墳、藤ノ木古墳と同じということ。
藤ノ木古墳の二人の被葬者はよくわからないが、時期的に蘇我馬子に殺された「穴穂部皇子(あなほべのみこ)宅部皇子(やかべのみこ)の合葬説」などある。時期的に鴨稲荷山古墳の方が先行しており、それに殺されたといっても皇子二人が被葬者かもしれない藤ノ木古墳と同じ副葬品という事は、この前方後円墳はかなりの有力者の墓と考えてよいだろう。

鴨稲荷山古墳

鴨稲荷山古墳


鴨稲荷山古墳

鴨稲荷山古墳


鴨稲荷山古墳

鴨稲荷山古墳


高島歴史民俗資料館

高島歴史民俗資料館

高島歴史民俗資料館