徳島県
事代主神社
撫養(むや)駅の真北で撫養街道に面した神社。撫養街道は鳴門市撫養町岡崎(旧撫養港)から三好市池田町までの街道で県道12号線にほぼ沿っている。撫養港は近畿との海上交通の四国側拠点だった。また、近世には撫養一帯に斎田塩産地の塩田が広がっていた。しかし、現在のこの辺りは鳴門市市街地の端という感じになっている。
龍王神社
徳島市国府町竜王の「竜王」はこの神社が由来かと思ったが、行政区画上は名西郡石井町藍畑字高畑に属していた。
本殿の右隣に周辺地域から移されてきたのであろう石碑・石祠・石仏が並ぶ。龍王、サルタヒコ・青面金剛という道祖神達、それに山神。
田中家住宅
武知家藍寝床
桜間神社
桜間の池の石碑:1406年(応永13年)に編集された夫木和歌集において「鏡とも見るべきものを」と詠まれた美しい池がありましたが、江戸時代後期には池跡となっていたようです。それを惜しんだ阿波藩主蜂須賀斉昌の命により、海部郡由岐浦の海中にあった巨岩を文政11年(1828年)から7年間もかけて引き上げ、この地に建立されました。【県指定史跡】
(https://www.town.ishii.lg.jp/docs/2018100400109/ 2020/02/06最終確認)
○櫻間の池 高川原村なる此池は傳へ云ふ古昔西高畑村より東池尻村に至り洋々たる大池に:して對岸にある人馬を區別せざりしが世の移るに從ひ漸く埋没して狹少となる昔日は櫻 の大樹池邊にありて花時は池水に映じて頗る壯観を極め村名また之れに因って起る西行法師行脚して此處に來リ和歌を詠じ其笈に負へる木華咲屋媛の神を奉祀す或年洪水のため流亡して矢三村に至る村民淨地を撰び堂を建て祀りしが當時高崎の部落民(穢多さ稱する者)が穢すを以て小堂に納め佐古村の椎木に縛す之れを椎の宮神社と稱すと〔徳島県名西郡役所 編纂『名西郡志』,臨川書店,1973. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9572479 (参照 2023-11-07)〕
『夫木抄』(夫木和歌抄)巻廿四:雑六(10824)にかかみとも-みるへきものを-はるくれは-ちりのみかかる-さくらまのいけ
(日文研和歌データベース http://lapis.nichibun.ac.jp/waka/waka_i070.html#i070-024 2020/02/06最終確認)と載っている「桜間の池」なのだが……
対岸の野槌神社を望む。
名西郡石井町高川原桜間は飯尾川右岸(南側)に集落の中心があるが、左岸にも広がっている。