阿波の野神
野神・山ノ神・水神の索引
- 阿波市阿波町野神の大センダン
- 浦庄諏訪の野神橋脇の野神
- 名西郡石井町浦庄諏訪の野神社
- 鳴門市撫養町斎田西発の野神社
- 鳴門市大麻町大麻比古神社の野神社
- 徳島市春日2丁目の野神社
- 徳島県徳島市名東町3丁目の野神
- 板野郡板野町西中富雁ケ坪の野神社
- 板野郡藍住町東中富西安永の水神社
- 板野郡板野町羅漢の野神
- 板野郡板野町黒谷の山神社
- 名西郡石井町高川原桜間の野槌神社
- 徳島市国府町芝原野神の野神社
- 徳島市国府町花園の野神
- 徳島市国府町府中の野神社・八坂神社
- 板野郡藍住町東中富大塚傍示の野神
- 名西郡石井町浦庄国実の野神社
- 名西郡石井町浦庄国実の神社(祭神不明)
- 名西郡石井町東高原の祠(祭神不明)
- 石井町藍畑字高畑龍王神社の山神
- 徳島市八万町上福万の山ノ神
- 徳島市八万町柿谷の山ノ神
出発点:阿波市阿波町野神の大センダン
徳島県で「野神」というと、国の天然記念物であるこの「野神の大センダン」がうかぶ。奈良盆地や滋賀県の野神を見てきた目から見ると、この大センダンの下に祭場がしつらえられた形跡があれば、ここが野神が祀られていた場所だと考えたくなる。旧久勝町の野神のせんだんの木
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野神をせんだんの老木の根元にまつる。周り8.1メートル,高さ15メートルの巨木は昭和32年国の天然記念物に指定。大盆栽に見え交通の大指標であり,近郷に知られていた。
周囲が公園として整備されたこの大センダンの根本には確かに小さな石造の祠がある。
徳島県立図書館の「とくしまデジタルアーカイブ」で公開されている近世・明治期の絵図に多くの「埜神」が見られる。描かれ方は、①祠・社(7例)、②木(9例)、③木と祠・社(7例)、④「埜神」の文字のみ(6例)、となっている(計:29例)。ただし、たとえば④にあてはまる絵図では、舟戸や山ノ神など埜神以外の社祠も同様に文字のみで描かれているので、①②③の描かれ方も実態を反映したものなのか判断が難しい。
小学校、幼稚園、保育所、葬祭場などに囲まれた公園の端にある古木。(阿波市阿波町野神3-1)
野神橋の野神
名西郡石井町浦庄諏訪の野神社
旧諏訪村(→浦庄村→石井町)は飯尾川が西→北→東と蛇行する間に挟まれた地域で、野神社は住居地域の北にある。
周囲よりやや高いが、洪水に曝されそうだった場所。
野神さんの祭りで有名なのは、石井町諏訪の野神社の夏祭りだ。この野神さんは立派な社殿に祭られている。祭神は草野比充命{かやのひめのみこと}。農業・牛馬の守護神である。毎年土用の入りの日(七月二十日前後)が夏祭りで、子供相撲などがあってにぎわう。もともと参拝者は牛馬の安全を祈り、ご祈祷した短冊型の牛馬の守護符をいただくならわしであった。それがいつの頃からか、子供の守り神として脱腸などに霊験あらたかとされ、願がかなえられた御礼として子供相撲を奉納するようになった。大正末期から昭和初期には、阪神方面からもお参りがあり盛大をきわめた。昭和十年ごろには徳島本線の野神踏切りに臨時の停車場もできたくらいだった。現在、この相撲の運営は総代会を中心に当家や世話人があたっている。参拝者が花場(受付)の世話人に花(金)を出す。世話人は前もって景品(ノート・鉛筆・タオルなど)を用意しておき「すもうを取らせて下さい」とやってくる子供たちに取り組ませて景品を与える。終日境内の土俵で取り組みがあって。露店も数十軒並び、近郷から歓千人の参拝者がある。*1
この神社の主祭神は、草野比売命、例祭は十月二十日である。土用入りの夏祭りは盛大に行われ、毎年七月二十日には、その信者は、昔遠く板野郡・阿波郡・麻植郡、東は徳島市などからもお詣りにきた。遠方の人たちは朝早くから尻からげをして歩いてきた。鉄道沿線の人は、汽車を利用してきたので牛鳥(うしのしま)駅は相当賑わったが、土用のため涼しい早朝の参拝が続いた。当日は、子供相撲が境内一杯に繰り広げられた。このように、子供が大人から賃金をもらって相撲をとるということは。昭和に入り、学校側から「児童訓育上疑義がある。子供相撲は、いけない」との注意が出た。こうした結果、神社総代と学校側の間に軋轢が生じた。あくまで、子供相撲を興行しようとする神社総代と、父兄は児童をまきこんで、同盟休校に及び、父兄の何人かは、石井署へ喚問されて、留置取調を受けた。そのため、子供相撲は、土俵上で行司が出て、勝負をするようになった。それからは、子供の神様として願かけや、願ほどきに相撲をとってもらい、相撲をとってくれた子供たちにお礼をするので、子供たちは喜んでとった。昔は、貰った銭で牡牛の仔一匹を買った子もあったという。祭典当日は。神官・総代・当家の人たちは早朝から出向いて、お守り札・おみくじ・赤い注連脚のおしめ繩等を売る手伝いをした。神官は終日信者のお願や、願ほどきでお神楽、太鼓や祝詞を上げ、また、巫女は白衣に緋の袴で両手に鈴と榊をもって神前に音曲を奏じ、浦安の舞を奉納する。続いて子供用おみこしの渡御が厳かに行われ、供奉の人たちも大勢続いた。この日はどこも夏の休みとして野神さんに供えたぼた餅、団子を家内中で食し、夏病みをしないように祈った。なお。この日は神社の境内に露天商が終日、境内を賑わし、寄付者名を染め込んだ幟が参道に幾十本もはためいた。昔は、「のぞき」という見せ物も繁昌したという。
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野槌神社 大字諏訪字野久保に在り祭神は草野姫命毎歳土用の入の祭禮を行ひ子供相撲を献すれば災疫を禳と言ふ賽者四方より麕集(きんしゅう)す
〔徳島県名西郡役所 編纂『名西郡志』,臨川書店,1973. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9572479 (参照 2023-11-07) p.278〕
本殿の裏側に石鳥居があり、かつては北側が正面だったのだろう。そして社殿の背後の塚の上に何か構築物が有り、その脇に今は枯死し切り株だけが残っている巨木があったのではないだろうか。それが後に、南側の道路から詣るように南面するように社殿が立て直され、境内も整備されたように思われる。
- *01 湯浅良幸・岡島隆夫/編『徳島市民双書 ・20 阿波の民俗 1 -年中行事ー』 徳島市立図書館 1986.03
- *02 石井町史編纂会/編『石井町史下巻』徳島県名西郡石井町 1991
- *03 荒岡一夫「野神考」『ふるさと阿波 第105号』阿波郷土会 16頁 1980.10