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霊麀山(れいゆうざん)行願寺(革堂)

寺町通の竹屋町通東端にある天台宗の寺。
西国三十三所の第十九番札所で、時々団体さんが訪れる。

左の石柱に「一条かうだう」と書いてある。


行願寺

行願寺


行願寺(革堂)

『日本紀略』によると、行願寺は行円が永祚元年(989年)の台風か何かで倒壊した一条北辺堂を再興して寛弘元年(1004年)(寛弘二年と書いてある史料もある。)に創建した。
九月十一日庚寅 月次祭 今日 一條北邊堂供養 一條堂 號行願寺 又云革堂 往往見下文 皮聖. 行圓 建立之
一条北辺堂は平安京では北東に位置する一条小川(現在、革堂町がある。)にあったらしく、知恩寺と隣り合わせだったという。この「小川」は「二股川」のことで、加茂川から分かれて堀川に注いでいた。百々橋が残っている。その後、転々として宝永の大火(宝永五年(1708年))の後に現在地に移った。
行円は豊後湯布院の出身で、若い時、狩りで親鹿(雌雄両説ある)を射止めたが、自分の傷よりも傷口から現れた小鹿を舐め回して死んだ親鹿を見て、その鹿の皮をいつも着て仏門に入ったという伝承がある。京に上がったのは晩年になってからだろうが、いつも鹿皮を着ていたので皮聖(かわひじり)と呼ばれたという。


堀一郎著『日本のシャーマニズム』(講談社現代新書 1971年)によると、「道長や実資、行成らの異常な関心と帰依を得た。」と民衆の支持だけでなく権力者をも惹きつけ、「行願寺(革堂)を東山に建て、四十八願に擬して四十八講を催し、釈迦講や普賢講、法華経書写、八万四千の小塔造立など活撥な宗教活動をしている。」のは、そうした権力者の後援があってこそだろう。また「彼は一に『横川皮仙』ともよばれ、比叡山の横川の僧であったらしい」と延暦寺との関係も興味深い。
この鹿皮を着るという姿は、空也-一遍という流れに特徴的だが、「空也流の阿弥陀の聖が鹿杖をもち、皮裘をきて金鼓をうって念仏をとなえて徘徊したとの伝承は、すこぶる従来の仏教のオーソドックスな様態からは異様とも感じられる」が、「わたくしはここに、これらの皮裘や鹿角を提供した古代の呪術的な『山人』たち、その子孫を含む狩猟民との密接な結びつきを想像しないわけにはいかない。」と書いている。これは北アジアの「馴鹿(トナカイ)の角を呪力のシンボルとするシャーマン」の朝鮮半島経由の影響があったと考えられるが、もう少し史料などの調査・検討が必要だろう。「踊りの中心に松明や大傘、高い柱などを立て、鹿杖をたて、鉦や太鼓、瓢箪などを用いることは、ふるい神祭や巫女託宣のセアンスの儀礼様式を継承するものではなかろうか。空也念仏は、まさにこのようなシャーマニスティックな祖型をふまえたあたらしい宗教運動であったともいえるのであろう。」と、仏教だけではなく日本の神祭や巫女託宣の儀礼様式を取り入れているのは確かだと思う。

本堂

行願寺

革堂の本尊は八尺の千手観音像。行円が千手陀羅尼を誦していたら夢に沙門が現れ観音像を造る木材を与えると告げた。翌朝、僧が下鴨神社に六歳日毎に千手陀羅尼を誦する槻(けやき)の古木があると告げた。そこで神官に頼んでその木を譲り受け千手観音像を彫ったという。


行願寺(革堂)

行願寺(革堂)


行願寺(革堂)

行願寺(革堂)



特大の五輪塔は右の石柱に書いてあるように加茂大明神のためのもの。
一条北辺堂の当初の位置や本尊の伝承から下鴨神社と特別な関係があった事がうかがえる。
それで後(室町時代)に加茂大明神を祀っているのだろう。でも、中の姿は不動明王のようだ。

行願寺(革堂)

行願寺(革堂)


行願寺(革堂)

五輪塔の左隣の祠には弁財天。


行願寺(革堂)

行願寺(革堂)


行願寺(革堂)

北の塀際には、百体地蔵尊や宝篋印塔、阿弥陀仏(か大日如来か?)の石仏が並んでいる。


行願寺(革堂)

行願寺(革堂)



鐘楼と鎮宅霊符神堂

行願寺(革堂)

鐘楼
鐘楼自体は(1804年)に建てられたもの。しかし、以前の鐘は昭和20年に供出されてしまい、現在の鐘は昭和48年5月の銘があり再鋳されたもの。
鎮宅霊符神堂
家内安全のお符の神といっても寺院の中にある場合は北辰妙見信仰が変じたものが多いようで、ここも妙見菩薩らしい。


寺町側と北側にある鎮宅霊符尊神の石柱。

行願寺(革堂)

行願寺(革堂)


寿老人神堂

行願寺(革堂)

行願寺(革堂)


行願寺(革堂)

都七福神巡りの一つになっている。
左の昭和五十五年に書かれた『一条革堂寿老人神堂本尊の由緒』によると、元々の像は宝物館にあり、同じ寸法・形の像を一般参拝人のために造って祀ったという。それが上の写真の像だろう。
また、豊臣秀吉が革堂をここに移した時に南極寿星寿老神(寿老人神堂)と鎮宅霊符神(鎮宅霊符神堂)をここ革堂に祀ったとある。北極星と南極老人星を揃えた事になる。


愛染堂

行願寺(革堂)

行願寺(革堂)


行願寺(革堂)

行願寺(革堂)


行円上人ゆかりの車石。どういうゆかりかは不明。

行願寺(革堂)

行願寺(革堂)


延命地蔵と大日如来

山門から西を見ると竹屋町通が真っ直ぐに延びている。


行願寺(革堂)

行願寺(革堂)


有栖館(Heian Jogakuin St.Agnes. Arisu-kan)

有栖川宮邸は京都御所建礼門の南向かいにあったが、大正時代に家系が絶えてしまった。その後、京都裁判所仮庁舎などとして使用された後、現在の場所に京都地方裁判所所長宿舎の一部として移築され、2007年迄使用された。翌年、平安女学院が買い取り、茶道、華道、着付けなどの授業・部活に活用されているという。

 
有栖館

烏丸通からもよく見える二本の枝垂桜は醍醐寺三宝院で芽を出していたものを移植した。
有栖館


満開の早朝
有栖館

 
有栖館


 

「コ」の字の切れた辺を廊下でつないだ建物配置になっている。


有栖館

有栖館


南側の庭は十一代小川治兵衛の作庭。日本庭園と築地塀の向こうに聖アグネス教会やレンガ造りの校舎が見えるいう、ある意味、京都らしい眺めになっている。

有栖館

有栖館


付書院がある上段間と座敷の手前の板張り部分は能舞台として使える。

有栖館

有栖館


リーフレット


木戸孝允邸宅跡と達磨堂

京都市職員会館「かもがわ」の敷地内にある。長州嫌いなので、深入りしないでおく。

木戸孝允邸宅跡

木戸孝允邸宅跡


達磨堂には木戸孝允の養子の木戸忠太郎が集めたダルマ・コレクションが収蔵されている。
「かもがわ」館内にも中国のダルマなどが展示されている。

達磨堂

達磨堂