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井草八幡宮の富士塚と石灯籠

浅間神社
富士塚

 
富士塚

近世後半の江戸では富士講が大流行した。
富士塚

「丸を講」という地元の富士講があった。
富士塚

きれいな円墳形状
富士塚

なんと、昭和五〇年(1975)に境内から移されたとか。
富士塚

 
富士塚

 
富士塚

正面「正八幡宮」、横「富士浅間宮」
富士塚

近郷の村人が寄進
富士塚

元禄七年建立、文政元年に再建
富士塚

「食行身録」は富士講身禄派指導者の「食行身禄じきぎょうみろくのこと。
富士塚

対の石灯籠は登山三拾三年大願成就記念で文政六年建立
富士塚

これらの灯籠も本殿前から移されたらしい。
富士塚

東京都の富士塚

井草八幡宮

氏子地域はほぼ旧井荻村に広がる。「井荻」は明治二二年(1889)町村制施行に際し、上井草村・下井草村、上荻窪村・下荻窪村が合併した際に「井草」の「井」と「荻窪」の「荻」をつなげた造語。

 
井草八幡宮


近世までは遅野井八幡。遅野井は善福寺池の湧水。

北参道の鳥居
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

楼門の左右には、神戸町、善福寺町、今川町、上井草町、正保町・八成町・住吉町、新町、中通町、三谷町、宿町、井荻三丁目と住居表示前の町名が掲げられているが、何を収蔵しているのだろう?

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

東京都の西部には、源頼義・義家、頼朝が絡む伝承がやたらと多い。それも、前九年の役・後三年の役、奥州征伐と、もっぱら東北地方での戦いの際の往復路での出来事とされている。要するに、他に題材を求め難い地であったということだろう。

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

神楽殿とされるが橋掛かりがある能舞台
井草八幡宮

 
井草八幡宮

元拝殿の招神殿
井草八幡宮

 
井草八幡宮

多数の力石
井草八幡宮

 
井草八幡宮

文華殿(宝物殿)
井草八幡宮

左の鳥居は三谷の稲荷社、右の鳥居は新町の稲荷社
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

上の稲荷社が共に昭和50年改築なので、富士塚が北に移された後にここに移されたと解釈できる。つまり、この辺りが富士塚の旧地ということになる。

 
富士塚

 
富士塚

小御嶽石尊大権現は富士山吉田口登山道五合目に鎮座する冨士山小御嶽神社の祭神で、富士講の先達を守護するとされる。現在の祭神は、イワナガヒメ、コノハナサクヤヒメと苔虫命。苔虫命は岩に苔がむすまで永久の命のイワナガヒメ(磐長姫[記]・石長比売[紀])と解釈されるが、そうするとイワナガヒメと重複してしまう。また、周辺は富士山北側を守護する小御嶽正真坊という天狗の天狗の庭と言われ、7月1日の開山祭にも登場する。

 
富士塚

右が天狗?
富士塚

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

井草民俗資料館
井草八幡宮

奥多摩の御嶽神社内、大口真神社の狼の御札。
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

井荻村村長だった内田秀五郎が主導した土地区画整理の記念碑
井草八幡宮

土地区画整理碑
井草八幡宮

 
井草八幡宮

 
井草八幡宮

竹下稲荷神社

竹下新田は、もと関村のうち幕府の御用林であった。天明4年(1784年)、竹下忠左衛門という浪士が願い出て開墾したので、その名が付いた。「練馬の地名 今むかし(旧地名の部)」(https://www.city.nerima.tokyo.jp/kankomoyoshi/annai/rekishiwoshiru/kyuchimei/old_sekimura.html 2020.6.8)

 
竹下稲荷

 
竹下稲荷

千川上水から関町一丁目交差点から分かれた分水・半兵衛掘が青梅街道に沿って東に流れていた。弁天さんはその辺に祀られていたのだろう。今は「池無」になってしまった。

信次池無弁天尊
竹下稲荷

 
竹下稲荷