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馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)

綿向山頂上の天穂日命(あめのほひのみこ)を祀る大嵩神社(おおだけ)を奥宮(山宮)とし、延暦十五年(736年)に里宮として建てられたという。
日野祭はこの神社の春の例祭。

馬見岡綿向神社


笠懸の宮:かつて、この参道で流鏑馬が行われ、的の傘が懸けられたというが、祠に的を懸けて、それに向けて矢を射るというのは失礼な話で、ここに松の木でもあったのか?

馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


旧山中正吉邸(ギャラリー仁正寺藩)

山中正吉家は山中兵右衛門家(現近江日野商人館)の分家。初代正吉は静岡県で造り酒屋として財をしたた。この建物は最初、江戸末期に建てられたが、昭和十三年頃に全面改装された。これもお助け普請の一環だったのか?外から見ても建物が連なっているのがわかる。

馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

仁正寺藩(西大路藩)は、藩主は市橋氏で蒲生郡と野洲郡に領地があった。
藩主市橋長富が寄進した最大の曳山。藩の面目をかけたかな?
この東側が仁正寺藩で、西側は水口藩領だったので、この曳山だけ他藩という感じだが、住民には藩の境界というのは余り意味がなかったのだろうか?


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


伝若松の森趾:"会津若松"の"若松"の名の由来の地?蒲生氏郷が会津の黒川へ移封となった時、地名を「若松の杜」からとって「会津若松」に称したとか。この話は会津若松の人も異論はないようだ。

馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

勧請縄

 


「下がり」という先に榊を結んだ小縄がトリクグラズの左右に6本ずつ下がっている。12ヶ月の日の長さを表すという。中央のトリクグラズは日と月を表す。(西村泰郎『勧請縄』サンライズ出版 2013年 より)

正面の鳥居をくぐる参道がない。


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


社務所

馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


神輿蔵

拝殿


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

千鳥破風と唐破風が二段の計三段の破風を持つ入母屋造の本殿。
馬見岡綿向神社の祭神は、天穂日命、天夷烏命、武三熊大人命。


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

本殿は宝永四年(1707年)に再建されたが、日野商人がかなりの資金を提供したのだろう。
彫刻がなかなか素晴らしい。


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

本殿の右手、回廊との間にポツンとある榊御前社。


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

村井御前社。
邊押盤皇子は『日本書紀』では市辺押磐皇子。後に二十一代雄略天皇となる大泊瀬皇子が、皇位継承を狙って蚊屋野に狩りに連れ出して暗殺させた。蚊屋野は鎌掛辺りではないかと言われる。二十三代顕宗天皇がその遺体を埋めた場所を探した時、見つけるのに協力したのがここの祭神になっている置目老嫗という。


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


安平稲荷社

馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


浅間社

馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

左から、竃之社、稲置三麿神社、玉椿神社。


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

天満宮


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


千両松。日野商人ゆかりの松といったところか。

馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


池之社。宗像三女神などを祀る。

馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

蛭子社


絵馬殿

馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


平成二十八年の大嵩神社式年遷宮のための用材を乾燥中。


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


「桜下馬図」

「曳き馬図」(文政四年(1821年))


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


「桜下馬図」

「塞翁と馬図」


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

ここの絵馬を見て、どこかで見た記憶があったので後で調べたら、成安造形大学の吉村俊昭教授が調べられていて、『近江学 第5号』(2013年1月)に「板絵馬―板絵に見る祈りと願い」、成安造形大学付属近江学研究所『紀要 第2号』(2013年3月)に「立花図―馬見岡綿向神社の立花図とその由緒について―」という調査報告が載っていた。


「立花図」

上記『紀要 第2号』に掲載されている報告によると、文化十三年(1816年)の奉納された日付が書かれている。左右二枚とも「島舟画」と絵師の名が記されているが「島舟」という人物については未確認という。

右から、梅、杜若、水葵か藤、萩、水仙

右から、牡丹、菖蒲・河骨・沢蟹、竜胆?・鳩置物、菊、柳・椿


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


「祭礼渡御の図」

『近江学 第5号』の記事によると、弘治三年(1557年)中野城主蒲生定秀が孫の氏郷を祝って再興した祭礼渡御の祭列を描いたもの。文化九年(1812年)に奉納された。絵師は谷田輔長。"日野商人の中井良祐光武が発起し、その三男中井正治右門橘武成が奉納した"もので、"絵馬殿はこの絵馬のためにあわせて寄進されたという"。

馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社


馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社