日野(2)
正野薬店
「正野玄三」の表札が掛かっている。
初代玄三(幼名を萬四郎という)は越後に移り日野碗を各地に行商していた。"そこで母が病気になった事を聞き帰って看病したが回復しなかった。そこで京都の名古屋玄医の治療を受けたら治った"云々という伝記は色々なWebサイトに載っている。1659年の生まれで1693年に京都へ行き、1701年に日野に戻ったという事だと年齢は40代前半となる。日野では製薬を始め、使用人に行商させたほか、他の行商人への卸も行った。行商人による商品の流通形態は、各地に商品を在庫として置かせる特約店経由の卸商売だった。万病に効く携帯が容易な合薬「神農感應丸」を製造・販売し全国に広がった。万病に効くという事で、後に「萬病感応丸」が正式な名称となった。
初代正野玄三は1733年に没した。「医者の不養生」ではなかったようだ。
正野薬店は現在は観光案内所。右の白壁の蔵は喫茶コーナー、左の家にはちゃんと正野家の人が住んでいるようだ。
正野玄三が作った「正野萬病感應丸」はそもそもは行商に行く日野商人の携行薬だったようだが、薬自体が日野椀に次ぐ行商の商品となった。
日野薬品工業のWebサイトによると
■こんな方にお勧め!!
● 血虚や気虚からくる症状の改善
(普段から顔色が悪く、血の気の少ない人、疳の強い人、動悸・めまいを訴える人)
● 気付け薬として
● 何となく体の疲れがとれない人、何を飲んでも体がシャンとしない人
● 自分の体にとって良くないものを食べた時の毒消し、下痢止めとして
● 病中病後の補助薬として
だから、確かに何にでも効くというわけではないが、効能は幅広い。旅行に持ってゆくには良いかも。
ところで、その「正野萬病感應丸」、そこらの安売りドラッグストアでは買えない。そこで実物を見てみよう。
かなり、高額医療になってしまう価格です。(何個入りの箱を買うかで単価は変わるが、一粒280円~450円)
---------------------------------------- ◇ ----------------------------------------
塀に設けられた桟敷窓の内側は内庭になっていて、日野祭の時には建物と桟敷窓の間に渡り廊下のような板を渡し、そこに座って見物する。
「一字一石」といってもお経を一字一石に書いた一字一石経とはちょっと異なる。
この地蔵堂に類似したものは日野のあちこちの祠で絵馬のように石に穴をあけてつりさげられている。
小川太郎兵衛は村井集落の庄屋だった人で、左の写真の説明にあるように、寛永十三年(1636年)は干ばつで大凶作となり、わずかに収穫できた米は翌年の夫食貸しとするよう伏見の代官所へ請願したが聞き入れられず、代官所の前で切腹したという。
ところで、なぜ、「伏見の代官所(奉行所?)」かと言えば、関ヶ原の戦いの後、西軍についた水口岡山城主の
滝之宮神社
滝はどう見ても昔の滝ではない。
日野川ダムからの日野川は、鎌掛からの南砂川と寺尻集落の手前で合流しているが、かつては日野の村井・大窪の南端を通り、木津集落の手前で合流していた事が地形や残存している水路から推察できる。
佛智山信楽院
蒲生氏の菩提寺。蒲生貞秀が中野城内に開いた寺だが、蒲生氏が転封されたので荒廃していたのを、旧臣が蒲生定秀の隠棲の地であった現在地に再興したという。
浄土宗寺院。本堂は修理中だった。
鐘楼の彫刻は見応えがある。
秘仏堂というらしい建物。地蔵、?、観音を安置しているが、皆様厨子の扉の内側。
行者堂と右は太子堂
太子堂
太子堂の山号を書いた扁額。
建物の外観は簡素だが、唐破風の中の装飾的彫刻は凝っている。
彫刻が素晴らしい凝った山門(三門?)
三つ巴は蒲生氏の家紋
西之宮神社
日野祭りの5月2日の宵祭りが西之宮神社の例祭とされる。
杉崎稲荷神社
この鳥居は意外に大きくて存在感がある。
本殿の右奥にはお塚もある。
これが気になるのだが、何を祀っているのか不明。
椎植神社
八千鉾神社
末社。祀られている神様は記されていない。