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当麻山無量光寺

当麻山無量光寺

平坦ではない地形や現在の交通の便を考えると、ここが交通の要衝であったとは想像しにくいが、相模川の船着き場として水運の拠点だったのではないだろうか。
一遍上人が金光院という庵を結んだという。「一遍聖絵」には出てこないが、だから史実ではないとも言えない。
寺院としては遊行二祖他阿真教が嘉元元年(1303年)に止住するために当麻道場を開いた後に整備され、実質的に本山となった。三代目の智得がここで亡くなった後、執権北条高時により真光がこの寺を継ぐことになった。京都の七条道場金光寺を開いた遊行上人だった呑海は真光と対立して当麻道場には入れず、藤沢に清浄光寺を開き止住する。前者は当麻派、後者は遊行派と呼ばれる。


当麻山無量光寺

当麻山無量光寺


 

金光院跡とされる場所。


当麻山無量光寺

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一遍上人が杖にしていた椰を地面に刺したら根付いたという、弘法大師のような伝説がある木。

当麻山無量光寺

当麻山無量光寺


当麻山無量光寺

当麻山無量光寺


当麻山無量光寺

高麗門は見た目にややこしい。正面から見て左右の鏡柱(本柱)の上に屋根を乗せ、各々の鏡柱と後ろ(境内側)の控柱との間にも屋根を付けたもの。


山門

当麻山無量光寺

当麻山無量光寺


山門の西側の崖には滝跡がある。「加行けぎよう乃瀧」

当麻山無量光寺

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当麻山無量光寺

当麻山無量光寺


熊野権現社

当麻山無量光寺

当麻山無量光寺


石塔が幾つも立ち並んでいるが、特に注目すべきは徳本念仏塔。その独特な字体の名号が特徴。徳本は江戸時代後期、江戸を中心に関東・中部・近畿にかけて念仏講を組織し、多くの人々の崇敬を集めた。

当麻山無量光寺

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鐘楼

当麻山無量光寺

当麻山無量光寺


弁天堂


当麻山無量光寺

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当麻山無量光寺

当麻山無量光寺


当麻山無量光寺

一遍上人の歌碑が多い。

かくしつつ  野原のくさの 風の間に
      いくたび露を むすびきぬらん

おもひとけば 過にしかたも 行末も
      一とむすびなる ゆめの世の中

とにかくに 心はまよふ ものなれば
      南無阿弥陀仏ぞ 西へゆくみち

とにかくに まよふ心を しるべにて
      なむあみだぶつと 申ばかりぞ


当麻山無量光寺

当麻山無量光寺


当麻山無量光寺

当麻山無量光寺


仮本堂

当麻山無量光寺

当麻山無量光寺


当麻山無量光寺

当麻山無量光寺


 

芭蕉の句碑


当麻山無量光寺

当麻山無量光寺


本堂跡:本堂は明治二十六年に焼失してしまった。その跡地中央に一遍上人の銅像が建っている。

当麻山無量光寺

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当麻山無量光寺

真教上人ゆかりの木槵樹もくげんじゅ
木槵子所造數珠也。
黒く硬い種子は数珠に用いられる。


当麻山無量光寺

当麻山無量光寺


当麻山無量光寺

当麻山無量光寺


お髪塚おはつづか:世良田左京亮有親と子の太郎左衛門尉親氏(三郞親氏)が南朝方の新田義貞の三男・新田義宗について戦ったが敗れ、ここで剃髪しその髪を納めたという。世良田氏は新田氏から分かれた上野国新田郡世良田郷の豪族。『徳川実紀』は有親、親氏が時宗の僧になり現在は愛知県碧南市にある時宗称名寺に寄寓し、親氏が松平氏の婿養子になったとしている。しかし、断絶した世良田氏の家系を使って、松平・徳川氏を清和源氏-新田氏-世良田氏の後裔としようとしたという説が専ら。

当麻山無量光寺

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当麻山無量光寺

御影の池


当麻山無量光寺

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