藤澤山無量光院清浄光寺(遊行寺)
境川を渡る。
遊行寺は東海道に面しており、門前町から発展した藤沢宿の北東に位置する。
惣門
藤澤山無量光院清浄光寺は時宗総本山。
開基は地元の豪族、俣野五郎景平で開山は遊行上人第四世の他阿呑海。呑海は俣野氏の出身と伝えられ、遊行上人二世真教に従い、後に賦算を許され、京都七条道場金光寺を開いた。金光寺は衰退し、明治四十一年(1908年)に長楽寺に吸収された。
当麻道場(当麻山無量光寺)を真教より継いだ智得と対立した呑海は、廃寺だったらしい極楽寺を清浄光院(藤沢道場)として止住することとなった。
「一遍上人絵伝」巻六には弘安五年(1282年)の片瀬の浜の地蔵堂で踊り屋が建てられ踊っている人々が描かれているが、藤沢のこの辺りとの所縁は書かれていない。
真徳寺(赤門)
遊行寺の塔頭、真光院・栖徳院・善徳院・貞徳院が昭和十九年に合併して成立した。
真浄院
筆頭の塔頭寺院。開山は呑海上人という。
大銀杏
俣野大権現
清浄光寺の北に、俣野公園や横浜薬科大学がある横浜市戸塚区俣野町や、藤沢市西俣野という町名がある。
呑海と俣野氏との関係は確実なものではないようだが、俣野大権現としてここに祀られている由緒は右下の写真の説明のとおり。
地蔵堂
「ひぎり地蔵」を祀る。日を限る=「ひぎり」で、特定の日にお参りしないと御利益はないらしい。
昔は地蔵堂かその背後に熊野権現が祀られていたと思われる。熊野本宮に祀られた熊野権現の本地仏は阿弥陀如来だが、一遍は参籠していた證誠殿で「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」と夢の中で告げられ、これが「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」の賦算の始まりとなる。そして、近世には、遊行上人が藤沢上人として止住することになり、後継の遊行上人を決める方法として、各地から選ばれた三人の候補から、清浄光寺に祀られた熊野権現の前でくじ引きを行った。くじに当たった?僧が遊行上人として廻国し賦算を行った。遊行上人は代々朝廷から「他阿上人」の号を下賜された。
本堂
昭和十二年落成だが、虹梁や木鼻の彫刻は見もの。
敵御方供養塔
上杉禅秀の乱で戦死した敵御方(味方)を供養するため、応永二十五年(1418年)に造立された。右下の説明に書いてあるように、戦勝者の鎌倉公方足利時氏が発願、太空が導師となったと考えられている。
太空は能の「実盛」で加賀の篠原で斎藤別当実盛の亡霊を弔った十四代遊行上人だった。
酒井忠重は江戸前期の旗本。出羽国村山郡白岩領8000石領主となるが、圧政のため白岩一揆が発生する。そのため改易され庄内藩主酒井忠勝預りとなるが、忠勝の娘と自身の長男を結婚させようと策謀し、後に幕府に知られて改易、旗本の身分を失った。下総国市川村に蟄居したが寛文六年(1666年)に何者かによって殺された。
そういう人物だからこそ?、塔頭「海潮庵」に万日堂を寄進し、逆修の六地蔵を建てねばならなかったという事だろうか。