信貴山朝護孫子寺
信貴山と言えば、この景色。張り子の虎から本堂を見る。
トラッキーとラッキー?
十三塔
信貴山真言宗総本山。成福院、千手院 、玉蔵院という3つの塔頭が独立採算らしい宿坊を営んでいて、全体の統一感に欠けるところがある。
本堂
両側に百足がいる扁額
豊臣秀頼が寄進した旧本堂は昭和二十六年(1951年)に焼失し、現本堂は昭和三十三年(1958年)に再建された。奈良国立博物館に寄託されている「紙本著色信貴山縁起絵巻」は国宝だが、霊宝館の銅造毘沙門天立像などを除いて山内全体に古い建物や仏像がないので古寺の佇まいには欠ける。懸け造りの舞台からは眺めが良い。
寳山寺以上にあからさまな現世利益の欲丸出しに圧倒される。
行者堂
多宝塔
三宝堂
かやの木稲荷
下に書いてある「聖徳太子が物部守屋の討伐に河内稲村城へ向かう途中、この山に登り戦勝祈願すると毘沙門天王が出現し必勝の秘法を授けた。その日は寅年、寅日、寅の刻だった。」という伝承は、『日本書紀』巻第廿一の崇峻天皇二年秋七月にある[蘇我馬子や皇子・群臣が物部守屋の澁河の家を襲った時、厩戸皇子が四天王像を作り「今若使我勝敵、必當奉爲護世四王起立寺塔。」と誓願し、迹見赤檮が守屋を射落とした。]という記述に尾ひれが付いたものか。『紀』には蘇我馬子も「凡諸天王・大神王等、助衞於我使獲利益、願當奉爲諸天與大神王、起立寺塔流通三寶。」と誓ったと書いてある。こちらが後世には全く無視されているのは、その後、乙巳の変に至るまでの蘇我氏の行ないが嫌われたからだろう。でも、よくぞ『紀』はこの一文を残したものだ。
絵馬堂の絵馬
毘沙門天の眷族、虎と百足。奇妙な取り合わせだ。