下目黒村の社寺・石造物(1)
行人坂の石造勢至菩薩
目黒雅叙園へ下る坂道が行人坂。目黒不動尊への参拝道だった。
湯殿山修験(羽黒修験)の大海が大日堂(大圓寺)を建てて修業したのが名の起こりと書いてある。坂下の雅叙園あたりにあったという明王院の西運(八百屋お七の恋人吉三が出家した後の名?)が目黒川にかかる雁歯橋(現在の橋には「たいこばし」と書いてある)を掛けたという事が勢至菩薩像の銘文書いてあるという。明王院は明治時代に大圓寺に吸収された。
松林山大圓寺
建久四年(1193年)造立という天台宗寺院。国重文の清凉寺式の本尊釈迦如来立像は、釈迦堂に安置されている。
五百羅漢石仏群
江戸三大火事の一つ、目黒行人坂大火(明和の大火)の火元で、その犠牲者の供養のために造られたという。
出火原因は大圓寺の僧の放火だったという。
五百羅漢は「自分の探し求める人の顔がある」と言われるが、かなり個性的は表情やポーズの像がある。
法事の車が駐車していて正面から撮れなかった三つの庚申塔。総て三猿が付いている。
総て17世紀後半、寛文・貞享年間のもの。
真ん丸な目が可愛い。
雌雄の区別が明確です。
この双体道祖神は新しそう。
釈迦堂には国の重文・清凉寺式釈迦如来立像を安置している。
正月など年に数回ご開帳がある。
さわら庚申
「さわら」は魚ではなくて木の名前。祠の右後ろに植えられている。庚申塚の両サイドは道標になっている。
盃状穴があるというが、言われればそう見えるかな?という感じ。供えられた花は真新しい。
田道 町の庚申塔
きれいに清掃されていて、花も供えられて、町内の方が大切にしている事がよくわかる。
左端だけ18世紀初め、他は17世紀後半のもの。
六体は青面金剛を刻んだ庚申塔。右端はお地蔵さん。
踏みつけられた邪鬼
ちょっと膝を曲げた姿勢
頭に蛇
頭に髑髏
「元禄」の文字がよくわかる。この中で最古。
大鳥神社
社伝では堺の大鳥大社との関係は記述されていないようだが、やはりいつの時代かに勧請されたものでしょう。
17世紀後半から18世紀初頭のもの
中央の石は「驪鳥石」と書いてある?
驪鳥とはムクドリモドキ?
線刻の五菩薩。
下の大聖院と同じマリア灯篭。
三田春日神社付近の島原藩の屋敷にあった?
11月の酉の市
松輝山生運寺大聖院
切支丹燈籠(マリア灯篭、織部式灯篭、織部好み灯篭。)
火袋から上が失われている。
長い裾と足先がキリスト教の聖人風だとか。
謎の文字?文様?
古田織部(古田重然)は丑歳生まれで「丑」の字ではないかという説がある。古田織部は天文十二年(1543年)の生まれで、この年は癸卯なので十二支は卯歳。
百観音(西国三十三所・坂東三十三箇所・秩父三十四箇所)の石柱:本当に百か所廻ったかは定かではありませんが…
宝永三年(1706年)建立。目黒村の鎮守、大鳥神社はすぐ隣。
みかえり阿弥陀は空襲で焼失したこの寺の御本尊の事らしいが、そうするとこの石柱(道標)はここから一町ほど離れた所に立っていたという事になる。
蟠龍寺
歌舞伎役者に信仰されたという「おしろい地蔵」
洞窟の中に弁天様。琵琶か何かを持っていたような両手。向かって左のとぐろを巻いた蛇は宇賀神か、龍神か?
屋根の大棟両端には鴟尾。
海福寺
黄檗宗寺院。明治時代に深川から移転。
文化四年永代橋崩落横死者供養塔と石碑
文化四年(1804年)に門前仲町から近い深川富岡八幡宮の祭礼に行く人たちの重みで橋が落ちて、多数の死者・行方不明者(人数は今一つはっきりしないが数百人から千人以上)という惨事になった。
武田信玄の屋形(館)にあったと伝承される九重の石塔。
四脚門は上落合の泰雲寺からの移築。
天恩山五百羅漢寺
本所五ツ目(江東区大島3丁目あたり)から明治時代に移ってきた。黄檗宗から分かれた単立寺院。
五百羅漢は撮影禁止です。
徳川吉宗が鷹狩りの際に立ち寄り休息したという将軍お腰掛石。一畳台以上の広さがありそう。
本堂。
シタールの音色をBGMにして、お釈迦様の説法が現代日本語で流れている。
霊鷲山での説法(法華経を説いたとされる)という事になっているが、ここでは八正道について語られている。
開基松雲元慶☐塔
近世には書写した大乗妙典(法華経)を六十六国の霊場に各一部づつ納めて廻国する六十六部などと呼ばれる人々がいた。
延享丁卯(延享四年(1747年))建立の石塔。
状態の良い享保五年(1720年)造の庚申塔。
左手に女人の髪をつかんでぶら下げている。