下目黒村の社寺・石造物(2)
蛸薬師成就院
慈覚大師円仁創建とされている。1月8日だけ御開帳される本尊薬師如来像は蓮華座を三匹の蛸が支えているので蛸薬師と言われる。円仁が中国から帰る船が嵐に遭い円仁はこれを鎮めようとこの像を海中に投じたら、これらの蛸は像を陸まで運んだのだとか。
徳川秀忠の側室だったお静の方発願という「お静地蔵尊」の由来は左と下の写真のとおりだが、実際は阿弥陀如来立像を中心に右側に観世音三体、左側に地蔵菩薩三体という配置になっている。
おにぎりの上に鳥(ハトサブレ説も)が止まっている?
臥龍山安養院
住所は品川区西五反田4丁目になる。この寺も慈覚大師円仁創建とされている。釈迦涅槃像が御本尊の本堂はビルの5階にある。
簡素な山門はなかなか味わいがある。
銀座アスター寄進の迫力あるが性格は良さそうな狛犬
観音堂
安養院は円仁が開いたとされているが、養玉院如来寺の五智如来を造像した但唱の弟子だった長音(慶長七年-延宝六年)が承応元年(1654年)に再興した。安養院は泰叡山護國院瀧泉寺(目黒不動尊)の末寺だった。長音は弾誓の孫弟子にあたる事になる。捨世派の木食上人の長音が天台宗系の寺院に入ったのは、上野の寛永寺を開いた慈眼大師天海と近かった但唱(寛永十八年(1641年)没)以来の天台宗との関係によるようだ。長音は5年ほどで寺を空誉に譲り、秋田に帰命寺を開き、京都の古知谷阿弥陀寺で『仏説弾誓経』の編纂にあたった後、帰命寺へ戻り土中に入って入定した。空誉は秋田藩(久保田藩)の藩主佐竹氏の引渡一番座に列した家臣芦名氏に仕えていた武家の出身だが、芦名家が断絶し仏門に入った。一之澤院浄発願寺の四世住職にも就いた。
長音が発願して延宝三年(1675年)に建てられた念仏供養塔
広島浅野家の浅野
目黒不動尊(泰叡山護國院瀧泉寺)
ここも慈覚大師円仁が開いたとされる。
比翼塚。白井権八と小柴の話は歌舞伎などに取り込まれた。でも権八はかなりの悪人だったとされている。
仁王門
犬らしい狛犬
三界萬霊塔
腰立不動尊
本居長世は本居宣長の子孫で、ここの碑に刻まれている『十五夜お月さん』の他に野口雨情作詞の『七つの子』、『青い眼の人形』、『赤い靴』などを作曲した。
北一輝の顕彰碑
青木昆陽の顕彰碑。
お墓は本堂北側の道を東に行った瀧泉寺墓地にある。
前不動
独鈷の滝
徳川家光が鷹狩りをした時、鷹が行方不明になり不動明王に祈願したら鷹がこの松に飛び帰って来たという「鷹居の松」跡
地蔵堂
精霊堂
観音堂
阿弥陀堂
女坂の途中にある役行者倚像
本堂
石段を登り切ったところにある石造狛犬は承応三年(1654)の銘があり都内では最古という。
火消しの第一区は中央区の辺りにあたる。筒先中は名前のとおり注水ホース先を担う放水係で階級としては三役のすぐ下になる。
鐘楼
延命地蔵の向こうに本堂
八大童子
意思(石)不動尊。意思薄弱と言われて育った身には有り難いお不動さん。
置かれている場所としてはおかしいがご隠居されたにしては状態の良い凝った狛犬。
元和三年(1683年)造の銅造大日如来坐像
オープンエアーだが四天王が四隅に配置されている。
覆屋の天井も凝っています。
本堂の後ろに銅造大日如来坐像、更にその後ろに地主神社。
瀧泉寺墓地の石仏達
瀧泉寺墓地にある青木昆陽の墓
独鈷の滝のそばに顕彰碑がある。
瀧泉寺は寛永七年(1630年)現在は東京芸大の西にある東叡山寛永寺護国院の末寺となり、蛸薬師成就院、大聖院、安養院などをその末寺とした。再建後の大圓寺も当然その傘下に入っていただろう。行人坂の名の起源である羽黒修験も寛永寺の下にあり、寛永寺から見るとこの地に瀧泉寺を核とした末寺群が形成されていた事になる。
浄土宗の蟠龍寺は増上寺の末になる。
五百羅漢寺(現在は単立)と海福寺という黄檗寺院は共に明治時代にここへ移って来た。