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長栄山本門寺(1)

池上

東急池上線池上駅より公称徒歩10分。
霊山橋で呑川を渡ると左右に塔頭が立ち並ぶ寺域に入る。


六郷用水の水路跡。天正十八年(1590年)の「小田原征伐」の後、徳川家康は豊臣秀吉に後北条氏の旧領を与えられる。六郷用水は慶長二年(1597年)から小泉次大夫により開削が始められた用水路(主に農業用水)。多摩郡和泉村で多摩川から取水し、幕府直轄領六郷の農業用水として使われ、六郷水門で再び多摩川へ注いでいた。

六郷用水

六郷用水


大石塔。表はお題目、右側面に「一天四海皆歸妙法」、裏を見ると文化八年(1811年)に日摂が建立したと記してある。

本門寺

本門寺


常仙院

中道院
昭和の民家風だが風情のある建物で庭も良い。


常仙院

中道院


鬼子母尊神

本妙院


鬼子母尊神

本妙院


本成院

本成院

本成院


総門

本門寺総門

本門寺総門


本門寺

本門寺


理境院


理境院

本門寺は武蔵野台地の東南の隅に位置している。このため池上・大森・蒲田など南や東から見ると本門寺は丘の上にあり、急な石段や坂道を上ることになる。
東には東京湾が現在よりも迫り、南は多摩川の三角州・氾濫原だっただろう。南東の先端にあたる堤方権現台古墳辺りからは弥生時代の遺跡・遺物が発掘されているが、住居は微高地に建てられ、水田は麓のデルタ平野にあったのだろう。


此経難持坂

本門寺石段

本門寺石段


北村西望作の日蓮上人像。北村西望作は1987年(昭和62年)に亡くなっているので、晩年の作となる。

本門寺

本門寺


本門寺

本門寺


仁王門

本門寺仁王門


本門寺仁王門

本門寺仁王門


長榮堂

本門寺長栄堂

本門寺長栄堂


元々は「長榮稲荷」だった。明治初期の神仏分離令で法華経にある大威徳天の化身という説明になった。日蓮上人が佐渡へ流された時から法華経行者を守護したという話から本門寺守護神として祀られ、江戸後期~昭和一桁の頃に稲荷社としてかなり賑った。建物は戦災で焼失した後のもので寺院風だが、鳥居や狐にお稲荷さんの残像がうかがえる。

本門寺長栄堂

本門寺長栄堂


日朝堂

日朝上人は身延山久遠寺11世法主で、久遠寺を現在地へ移転させた事で知られる中興の祖。「61才の時、『止暇断眠』の苦行と教化により両眼を失明。しかし、それを自らの不徳と懺悔し、ますます不惜身命の精進を続け、経力により眼病は全く快癒した。」というのが右下写真の説明の概略。身延町にある日朝ゆかりの塔頭・行学院覚林房で「日朝水」という目薬を売っている。

本門寺日朝堂

本門寺日朝堂


奉安塔

本門寺奉安塔

本門寺奉安塔


本門寺奉安塔

本門寺の大堂など主要な堂宇は昭和20年(1945年)4月15日の空襲でほぼ焼失した。その後、昭和29年(1954年)に日蓮上人の尊像と遺骨を祀る奉安塔が造られた。大堂が再建され後、平成十一年(1999年)に奉安塔は解体され、左の相輪部分だけが残されている。


鐘楼

本門寺鐘楼

本門寺鐘楼


脇には旧梵鐘が置いてある。加藤清正の娘で紀州藩祖徳川頼宣の正室瑤林院が正保四4年(1647年)に寄進した梵鐘を、正徳四年(1714年)に粉川の鋳物師木村将監藤原安成が改鋳したもの。昭和20年の空襲で亀裂・歪みが生じ、檀家総代の児玉誉士夫*!!発願で現在の梵鐘を造ったという。

本門寺

本門寺


本門寺

本門寺


本門寺

本門寺


本門寺

本門寺


大堂(祖師堂)

戦災で焼失した祖師像などを安置する祖師堂は、昭和三十九年(1964年)に大堂として再建された。

本門寺大堂

本門寺大堂


経蔵

戦災を免れた建物の一つ。一切経が納められていた。

本門寺経蔵

本門寺経蔵


前田利家室の層塔

本門寺

本門寺


加藤清正室の層塔

本門寺

本門寺


五重塔

国の重文文化遺産オンライン。台地の東端に建っているので、東側からはよく見えランドマークになっている。

徳川二代将軍秀忠の乳母・正心院日幸尼の発願により慶長十二年(1607年)に大堂に向かって現在の鐘楼堂と対の位置に建てられた。慶長十九年(1614年)の地震で傾き、元禄十六年(1703年)に現在地へ移築・修復された。初層内部には「南無妙法蓮華経」の御題目を書いた宝塔を中心に左右に釈迦如来と多宝如来、その下の段に上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩の四菩薩を安置した一塔両尊四士を祀っている。海住山寺の五重塔と同様に心柱が初層(初重)天井の梁上に立つ構造になっている。また、初層のみ平行垂木で、二層~五層は隅扇垂木というのも面白い。

本門寺五重塔

本門寺五重塔


初重の蟇股には十二支。北がネズミ(鼠、子)で、方角に合っている。

本門寺五重塔

本門寺五重塔

本門寺五重塔


本門寺五重塔

本門寺五重塔

本門寺五重塔


本門寺五重塔

本門寺五重塔

本門寺五重塔


本門寺五重塔

本門寺五重塔

本門寺五重塔


本門寺五重塔

本門寺五重塔


本門寺五重塔

本門寺五重塔


大堂の東側には五重塔周辺も含み墓地が広がっている。

本門寺

本門寺

本門寺


大名の正室・側室など、支配階級の女性の間で法華宗の信者が多かったことがわかる。

本門寺

本門寺

本門寺


本門寺

本門寺

本門寺


本門寺

本門寺

本門寺


本門寺

本門寺

本門寺


 

力道山の墓


本門寺五重塔

本門寺五重塔


不変山永寿院

永寿院は本門寺から続いて南に延びる台地上にある。
その台地の先に弥生時代の集落跡と堤方権現台古墳がある。


永寿院

永寿院


万両塚:芳心院墓所

永寿院万両塚

永寿院万両塚


永寿院万両塚

永寿院万両塚


周囲を空堀で囲む。

永寿院万両塚

永寿院万両塚


本門寺

芳心院は紀州徳川頼宣の娘で家康の孫にあたる。熱心な法華信者で、2003年からの調査・改修の際に、宝塔内から法華経巻子本八巻と骨蔵器が発見された。
左写真にあるように、造るのに一万両かかったというのは俗説。ではどれくらいかかったのだろう?
逆修として生前に造られたようで、寿蔵ということになる。


弥生時代住居跡の復原


本門寺

本門寺


考古学の層位学的研究をわかりやすく示している。

本門寺

本門寺

本門寺


本門寺

本門寺

本門寺


本門寺

本門寺

本門寺


万両塚の東南は堤方権現台古墳

本門寺

本門寺


復原古墳墳丘は上の写真の墳丘範囲から見ても位置は不正確で、合祀墓の付帯施設と考えた方がよさそうだ。

本門寺

本門寺


本門寺

芳心院以外の墓地。


妙見堂

妙見菩薩立像は、旧梵鐘と同じく瑤林院が本門寺に寄進した。

妙見堂

妙見堂


妙見堂

妙見堂


妙見堂

妙見堂


妙見堂

妙見堂


妙見堂

妙見堂


妙見堂

妙見坂