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野洲市平坦地(野洲町、中主町)の野神さん

冨波甲とばこうの野上社

野洲駅から歩くと宅地開発された分譲住宅地の端の向こう側にある。

冨波甲

冨波甲


冨波甲

冨波甲


生和神社

生和神社

この地を開拓し冨波之荘とした藤原忠重が主祭神。鳥居には「正一位生和大明神」と書かれた扁額が掛かっている。後土御門天皇から延徳三年(1491)に正一位の神階を下賜されたとする。その理由は定かでないが、応仁・文明の乱の後で朝廷財政は疲弊しきっていたので、何か財政的裏があったか?


生和神社

生和神社


生和神社

生和神社


 

日吉社


生和神社

生和神社


本殿に向かって右側の春日社

本殿


生和神社

生和神社


祇王井川

祇王井川

祇王井川


祇王井川

この辺りの出身という祇王は、『平家物語』に出てくる平清盛が寵愛したという白拍子。祇王が清盛に頼んで開削されたとされているので「祇王井」と呼ばれるという野洲川からひかれた用水路。
この近辺の水利と開発は、佐野静代『中近世の村落と水辺の環境史』(吉川弘文館 2008)の第一章「古代末期・中世の開発画期と平野部荘園の灌漑水利-近江国野洲川右岸平野を事例として-」に詳しい。そこに記述されている「家棟川」は、上流は県道324号沿いを流れているが、野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)あたりで県道から分かれ、篠原神社の北東端で流れを西に変え、その先は道路で永原交差点を過ぎ、野洲市総合体育館で西祇王井川(中の池川)と合流し、さらにその西で童子川と合流し北へ流れる。現在の「家棟川」は、篠原神社の北東からまっすぐ北へ流れ、緩やかに流れを西に変え、日野川に超接近するが、合流せずに琵琶湖に流れ込む。


東祇王井川と西祇王井川が分かれる地点。かなり水量豊富な池のようになっていた。

祇王井川

祇王井川


円光寺・大行事神社

円光寺

円光寺


円光寺

円光寺


円光寺

円光寺


大行事神社

大行事神社


「この野神さんは、もともとは字竹田の野池付近にあり、松の木の下に小祠がまつられていたか、明治期に大行事神社に合祀された。本殿の向かって左側に鎮座し、「野上神社」としてまつられ、室町時代の建築で市指定文化財である。この祭りは八月一七日に大行事神社で「大祭」として行われる。」*1左下写真の祠が該当する。

大行事神社

大行事神社


屯倉神社

屯倉神社

屯倉神社


屯倉神社

屯倉神社


屯倉神社

野神祭での子供相撲については、上の説明を参照。
囲みの中が土俵だろうか。


屯倉神社

屯倉神社


境内社は大神宮社、日吉神社 門神社となっている。

屯倉神社

屯倉神社


屯倉神社

屯倉神社


屯倉神社

屯倉神社


 

正一位一王子大明神の扁額


屯倉神社

屯倉神社


中主町吉次の吉次神社

吉次神社

吉次神社


吉次神社

「字野良(ノラ)の田畑のなかにあり、三畝ほどの広さで、松の木などが生い茂る所であった。小祠などはなく、「野神大明神」の石碑か建てられていた。宮大工長谷川家の記録によると、延享三年(一七四六)二月二八日に野神神社が再建されており、かつては祠があったことがわかる。平成一五年、工業団地造成のためやや東に移転し、石碑も遷された。(中略)八月二八日には、吉池神社で祭りが行われる。午後一時四五分ごろ、当番が神社横の法泉寺の鐘を撞き、これを合図に午後二時ごろからムラの人々が神社に参る。この日は宮司による祭典はなく、区長・氏子総代とムラの人々が参るのみで特に儀式的なものはない。」*1


三ノ宮

三ノ宮

三ノ宮


勧請縄

三ノ宮

三ノ宮


三ノ宮

二之宮神社より兵主神社へ行く途中にある神社。


三ノ宮の野神

三ノ宮


三ノ宮の野神さん

三ノ宮の野神

三ノ宮の野神


三ノ宮の野神

六条集落の野神さんだろうか。


兵主大社

五条

兵主神社


兵主神社

兵主神社


兵主神社

兵主神社


兵主神社

兵主神社


乙殿神社

兵主神社

兵主神社


兵主神社

兵主神社


兵主神社

兵主神社


兵主神社

兵主神社


兵主神社

兵主神社


兵主神社

兵主神社


兵主神社

兵主神社


兵主神社

兵主神社


兵主神社

兵主神社


兵主神社

池泉回遊式庭園といった感じの庭園。


兵主神社

兵主神社


引用文献・参考資料
  1. *01 滋賀県教育委員会文化財保護課編『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』滋賀県教育委員会 2007

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