愛知川宿
豊満神社御旅所
「沓掛の三叉路」にある豊満神社への道標
井上神社
八幡様
末社のお稲荷さん
河脇神社
古い資料は残っていないが、明治十三年の『河脇神社諸掛立會帖』に由来が載っている。この『立會帳』には明治十三年から四十四年までの神社関係の会計が記されており、その前の部分に由来が記載されている。特に明治維新前後のことが詳しく書かれ、「履歴編輯 高田吉兵衛識」と記載されている(資料3)。その由来とほぽ同じものが『河脇神社原由』として巻物になって高田家に残されている(一)。それらによると、河脇神社は大国主命、少彦名命を祭神としている。昔、愛知川は今の流れと違って中宿から稲枝の方に流れていた。上にある御河辺神社(東近江市神田町』、中の河脇神社、下にある川桁神社(彦根市出路町)が愛知川脇の三社として知られていた。なお、『淡海木間摺』には『かつて愛知川が南北二流に分かれていた頃、その両川の中間に位置していたため中宿とよばれた」との記述がある。江戸時代、河脇神社は白山大権現と言われ、白山人大権現」と書かれた『大釜』も存在している。また、江戸幕府が文化三年(一八〇六)に出した『中山道分間延絵図』にも「白山」という記述がある。
(企画展「町並みと信仰」を開催して~「中宿の歴史を知る会」活動報告~ 門脇正人 愛荘町歴史研究第1号別刷 愛荘町教育委員会文化振興課 2008年2月 (http://www.town.aisho.shiga.jp/pdf/choshi/aishokado1.pdf))
愛知川宿
中山道六十九次中六十五番目の宿場
神崎郡愛知川村と愛知郡中宿村の境なので「郡分地蔵」
八幡神社
本陣跡は日本生命
八幡銀行から滋賀銀行となり、滋賀銀引っ越し後、伊吹正
宝満寺
近江の真宗寺院らしい巨大な本堂。
愛知川が氾濫し川を渡れなかった親鸞がここに逗留した際に植えたという「お手植えの紅梅」で知られているらしいが、季節外れでよくわからなかった。
距離的にはかなり離れているが、豊満神社の別当寺だったという話もある。確かに読みは「ほうまん」ならば同じだが…。
大隴 神社
藤居本家
「旭日」を代表とする蔵元の母屋側。道路の向かい側に欅づくりの酒蔵などが並ぶ。
あまり高低差を感じないが、愛知川隆起扇状地の扇端の湧水を利用できる立地ということだろう。
この門が、なんとも個性的で面白い。