京都市の山の神・田の神と野神さん
左京区田中野神町
行政区域としての京都市は、淀から経ケ岳と南北に長い。
御土居の内側に山の神、田の神、野神などを見出すのは困難だが、左京区など現在は市街化していても、以前は農村だった地域には、その痕跡を見出すことができる。
左京区田中野神町は、旧愛宕郡田中村の字野神。叡電元田中駅の南西あたりの町名。
左京区下鴨南野々神町・北野々神町
京都ノートルダム女子大学・ノートルダム学院小学校は左京区下鴨南野々神町にある。北山通りをはさんで、北側は北野々神町。旧愛宕郡下鴨村の北端に近い場所になる。一帯はよい住宅地と化している。
文献から
「農家の仕事の1年は、山の神におそなえすることから始まりました。山の神の日は、1月9日。この日は『山の神が木の種をまきに来るのに出会うといけないから、仕事をしてはいけない』と言われていました。
田の神の日は1月11日。大みそかに、ユズリハとウラジロをつけた輪かざりをマツにつけ、それを田の水口にたてました。11日、その前に『田の神』用のかがみもち、みかんなどをそなえ、燈明をあげたのです。この日も仕事をしてはいけないとされていました。」
(岩倉の歴史と文化を学ぶ会/編『洛北岩倉』明徳小学校創立百周年記念事業実行委員会 2007)
『洛北岩倉』190頁にある「写真103 田の神まつり。中在地。1998年。」の場所は、2018年現在も景観は変わっていない。
『洛北岩倉乃研究 創刊号』(中村治編集代表 岩倉の歴史と文化を学ぶ会 1997)には、1月11日は、豊作を祈願し、田の神をおまつりする日です。『農家は苗代にする田というのを大事にし、その田の水口のところでおまつりをします。年末に田の水口のところに松の枝をさし、それにウラジロとユズリハと輪かざりをつけます。そのような松の枝を見られた方は多くあると思いますが、その前に箕を置き、その上に鏡餅をのせ、その上に昆布とみかんを置き、灯明をあげて祈っておられるところを見られた方は少ないのではないでしょうか』と説明し、小倉山西麓で中村康子さんに田の神の祈りをしてもらいました。
と、更に詳細な記述と写真*がある。
山科区小山中島町
JR山科駅・京阪山科駅と地下鉄東西線山科駅を結ぶ地下道の壁に、疎水や大石神社、毘沙門堂、勧修寺、随心院など山科の名所を紹介する絵が幾つも埋め込まれていた。その一つに「山の神」が掲げられている。名刹と並んで山の神が取り上げられていることに、ちょっと感心してしまう。
この大蛇と二月九日に行われる小山二ノ講(二九)については、京都新聞の「ふるさと昔語り」という連載に「(38)山の神の大蛇(京都市山科区)」*1として紹介されている。
鎌倉時代末に内海景忠という人物が大蛇を退治したという伝承は「内海家文書」に依っており、先に行われていた山の神祭祀に後付けされた可能性も感じられる。 あるいは「金屑丸」の部分だけが後付けか?「金屑丸」は山科で製造販売された食あたりや腹痛の薬。とくに内海家秘伝で専売というものではない。キクメイシという太平洋岸に生息するサンゴが配合されているのが興味深い。
山の神といっても、背後の山裾を流れる音羽川を渡り山へ入る橋があるわけではないので、山の口という位置ではない。何故、ここに祀られているかという答えは、クリスマスツリーのような円錐状に伸びた背後の樹の存在に求めるべきだろうか。この山の神として蛇を祀る形態は、奈良盆地南西部の野神祭で藁の蛇を木に巻き付ける形態に通じるものがある。音羽川の水を司る龍神と山の神が習合された形態とすると、奈良よりも古い形態を示唆している可能性がある。
北に少し上ったところに、かなりの収蔵品を有する私設の「京の田舎民具資料館」がある。館長の竹谷氏によると、山科に田の神や野神は祀られていないという事だった。少なくとも小山一帯は小規模な扇状地で形成された傾斜地で、水田耕作よりも畑作や果樹栽培が現在まで主流だったと思われるため、平地の田地に祀られる田の神や野神が見られないのは納得できる。
- *01 https://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mukasikatari/070207.html 2018.11 確認
- *02 https://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mukasikatari/061108.html 2018.11 確認