木之本町の野神さん
木之本町飯浦 の野神さん
飯浦の野神まつりは、夜、しゃぎりで囃しながら、高張り提灯をかかげて集落内を行列することに特色がある。
*1ということだが、2018年時点では、もう野神祭りは行われていないようだ。余呉湖の南端へ出るアチラ坂も荒れてしまっている。
余呉湖岸には飯浦の田(飛び地)があり、この峠道を飯浦の人たちは「アチラ坂」とよんでいる。山のあちら側に抜ける坂(峠道)という意味である。
、集落のはずれからアチラ坂を約五〇メートル進んだところに飯浦の野神がある。ケヤキと杉の大木があり、一角には石が積まれている。
*2ということなので、この2本の大木だろう。
賤ケ岳から西におりた琵琶湖岸の集落が飯浦。平地の少ない漁山村である。飯浦の湊は、中世以降、湖上交通の要所でもあった。
、(アチラ坂は)丹生谷・片岡谷の各村から年貢米を飯浦湊に運んだ道でもある。
*3飯浦の集落は山と湖が迫った狭い土地で、家屋周辺の畑地以外の農地はない。湖上交通や漁業、山の生業が主体の集落と考えられる。町域は余呉湖南の余呉湖野外活動センターやワカサギの産卵・孵化施設あたりを含んでいる。余呉湖側地域を考慮しないと、野神の位置は山の神を祀る位置と言えるが、湖岸の集落から余呉湖南の僅かな農地への道に面している事を考慮すると、野神を祀る位置としても妥当だと言える。
余呉湖側のアチラ坂への登山道入り口
木之本町黒田のアカガシ
この場所のこの木はとりわけ神々しい存在感に満ちている。
大音のシロカシ(白樫)と黒田のアカガシ(赤樫)とが対のように言われることもあるらしい。上の説明板に書いてあるように、アカガシが里に近いところに自生しているのは珍しいとか。
黒田農業組合が毎年8月に野神祭を行っている。
木之本町黒田へ
石道(いしみち)の野神さん
井明神橋東詰めからまっすぐ東に行くと石道の集落。集落の先に石道寺がある。
石道の田地は集落の西南西に広がる。野神さんは集落の南にある。その南西にはあまり広くはない田地が広がるが、東の己高山や山田山の麓でもあり、かつては山の生業の比率が高かったのではないかと思われる。野神さんは榎の巨木だったが、枯れたので石の塚を築いた。
野神祭は8月18日。郷廻りの太鼓踊りがある。
『近江国伊香郡二十七ヶ村耕地絵図 近江国伊香郡石道村(近江国各郡町村絵図 』に「の神」が見える。この絵図は明治初期に彦根県が製作したもの。彦根県は明治四年(1871年)夏に廃藩置県で成立し、秋には第1次府県統合で長浜県になっている。従ってこの絵図は明治四年に彦根県が成立した直後に制作され、旧彦根藩領から継承した状態を表していると考えられる。彦根藩は高月町に多くの所領を持っていた。
木之本町赤尾の野神さん
余呉川右岸、赤尾橋のすぐ上流にある。県道44号木之本長浜線からも余呉川の向こうに見える。
木之本町大音 の野神さん
余呉川右岸、大音の東端に位置する。
大音と伊香具神社へは、こちらのリンクから。
木之本町千田 の野神さん
千田は、唐川・
かつて野神さんがあった場所は北陸自動車道の建設でつぶされてしまった。この写真の背後のあたりになるはず。そこで近接するこの場所に石碑が立てられた。
ハンの木が残されている。
木之本町伊香高等学校の野神さん
木之本町田部の野神さん
木之本地蔵(浄信寺)の南側の道を東に歩いてゆく。この一帯には県立伊香高等学校、「こども園」、木之本小学校、木之本中学校が南北に並んでいる(15年間この辺りに通い続ける子もいるということになる)。その先の田部の北端あたりにある榎が野神さん。伊香高校の周辺には北の田上山の方から流れてくる赤川を利用した溜池が幾つかあるが、その赤川は「きのもと認定こども園」、木之本小学校の東を流れており、そこに東側の山からの小川が合流する。こうした土地なので耕地として拓かれたのだろう。
木之本町小山の野神さん
周辺も含めて比較的新しい「野大神」の石碑
木之本町古橋の野神さん
野神さんの石碑は集落と山裾の畑との境界に祀られている。この集落では野神さんと下に示す山の神の両方を祀っているが、いわゆる両神の春秋交替説は感じられず、別のカミとして認識されているようだ。
木之本町古橋の山の神
古橋は高時川両岸にわずかに田地があるが、村域のほとんどは己高山西斜面での山仕事を生業とした山村の性格が強い。
- *01 『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』212頁
- *02 『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』212頁
- *03 『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』212頁