余呉湖
余呉の伝説は大きく、(1)羽衣伝説、(2)菊石姫伝説、(3)菅原道真伝説の3種があり、(2)と(3)は(1)と絡んでいる。
(1)の羽衣伝説も南北朝期に書かれた『帝王編年記』のものと室町時代に書かれた『雑和集(雑話集)』に引用されている『近江国風土記』逸文のもの、江戸時代の『日本地誌大系』のものと三つがある。奈良時代に書かれたであろう『近江国風土記』に載っているので、日本最古の羽衣伝説となる。
天女の衣がけ柳。
しだれ柳のイメージとはまるで違う頑丈そうなマルバヤナギという柳。
木に衣をかけたのは『日本地誌大系』に書かれた羽衣伝説。天人は漁師の羽衣を隠した桐畑太夫の妻となり男子を産む。子守唄から藁の下に羽衣が隠してある事を知り、取り出して天に戻る。男子は後の菅原道真。
余呉のもう一つの売りが天正十一年(1583年)の「賤ヶ岳の戦い」。
羽柴秀吉方と柴田勝家方がそれぞれ余呉湖の北の平地の南北の山に砦を築き、睨み合いの状態が一ヶ月続いた。秀吉が織田信孝と戦うために美濃へ転戦した事を知った佐久間盛政が大岩山の中川清秀を攻めて中川清秀は討死する(山頂に墓があるが、この時代にあまり興味が無いので登る気がしない。ごめんなさい。)。秀吉は大垣から木ノ本までを五時間で移動したと言われる「美濃返し」で戻る。勝家方は前田利家が撤退した事もあり、敗退する。
名前から余呉湖と琵琶湖の間の賤ヶ岳で戦いがあったように思えてしまうが、主戦場は余呉湖の北や国道365号線に沿った平地だっただろう。
「はさがけ」用の柱。これらの柱を「稲木」と言い、これに横木を渡して稲をかけ、天日干しする。火力による乾燥よりもゆっくりなので、モミが割れない他、風味が増すとも言われるが、手間が掛かるのでほとんど行われなくなっっているという。
蛇の目玉石
湖から菊石姫変じた龍神(蛇)が投げた目玉があたったのでへこんだ跡。
ここらの湖中に「蛇の枕石」がある。
ここらが新羅崎神社の旧地らしい。
深層曝気の装置。
湖の底の方の酸素不足対策。
琵琶湖八景の一つ「賎岳暮雪」の石碑。琵琶湖八景は近江八景が南湖に偏っているという事で昭和二十五年(1950年)に作られた。
「七本槍の地」
この地図は左が北。
賤ヶ岳への登山口。飯浦へ
飯浦送水隧道
余呉湖は閉鎖湖だったが、昭和四十三(1968)年に琵琶湖の水を揚水するこの設備が造られた。
琵琶湖の水が水以外のものも含んでここから余呉湖に流れ込む。
ワカサギの産卵・孵化施設
余呉湖は冬はワカサギ釣りで賑わう。
氷結はしないので、湖の北側にある桟橋で釣る。
余呉湖放水隧道(川並放水路)の余呉湖側
お膳岩(左)と烏帽子岩(右)。菅原道真が供え物を載せた岩と烏帽子を掛けたという岩。単に形がお膳と烏帽子に見えるだけ。
余呉湖は、冬景色が似合う。
乎彌 神社
賽銭箱の三羽の鶴の紋章。
祭神の
余呉湖放水隧道の余呉川側
下流方向すぐに余呉川頭首工があり、高時川へも分水されている。
毛受(めんじゅ)兄弟の墓
4月下旬に紅葉している。
毛受兄弟の墓にある説明板に書いてあるように、賤ヶ岳の戦いの時に、毛受兄弟は、ここに陣を張ったという。