最上稲荷
昭和四十七年(1972)建立の高さ27.5mの鳥居が神威を象徴する。
最上稲荷参道口。屋根のあるアーケードになっているのは有難い。
『参詣のしおり』の略縁起によると、最上稲荷の歴史は、天平勝宝4年(752)に報恩大師が八畳岩でご本尊の最上位経王大菩薩(最上尊・最上さま)を感得されたことに始まります。爾来、『龍王山神宮寺』として繁栄を極めたものの、中世の戦乱時、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の備中高松城水攻めの際、戦火によって堂宇焼失の憂き目にあいました。ただし、ご本尊の最上さまだけは八畳岩の下の元宮と呼ばれる場所に安置され難を免れたのです。新たに領主となった花房公が関東より池上本門寺16世・日樹聖人高弟・日円聖人を招かれ、最上さまの霊跡を復興されたのが慶長6年(1601)のことです。寺名も『稲荷山妙教寺』と改めて、今日の興隆の礎が築かれました。以来『不思議なご利益をお授け下さる最上さま』として多くの人々の信仰を集めます。伏見・豊川と並ぶ日本三大稲荷・最上稲荷は、1200余年の歴史を通じて仏教の流れを汲んで発展を遂げてきた稲荷です。
とされている。
現在の巨大な本殿(霊光殿)。
開山千二百年記念事業として昭和五十四年(1979)竣工。
下の旧本殿の説明板にあるように、ここにあった旧本殿は昭和四十九年に曳家工事で現在地に移された。最上稲荷の本殿を「霊光殿」と呼び、最上稲荷の中心となる建物である。霊光殿の内々陣に「最上殿」と称するところがあり、その中央に「最上位経王大菩薩」(荼吉尼天像)が安置されている。御本尊の最上位経王大菩薩は報恩大師が感得されたもので、その姿は左肩に稲束をにない、右手に鎌をもった女性像が白狐の背に騎乗したものである。稲束と鎌で表現されるように、五穀豊穣に霊験あらたかな荼吉尼天像である。最上位経王大菩薩の脇士として本尊に向かって左側に八大龍王が、右側に三面大黒天が祭祀されている。三面大黒天は京都の清水寺を開いた延鎮上人が感得し祭祀したと伝えられ、「奥秘三面大黒福寿尊天」が正式な名称である。この像は三面六臂の姿であり、中央の面は大黒天で、向かって右側が綸と宝珠を持つ弁財(才)天、左側は鉾と宝棒を持つ毘沙門天である。この三面像は簑を背に負い手に槌を持ち、両足で米俵をふんでいる形態で、米の豊作と招福祈願にご利益かあることを示している。一方の八大龍王は古来、龍王山(稲荷山)の頂上に祭祀されていたものであるという。中世のころから雨乞いに霊験あらたかな八大龍王として、備中地方の信仰を集めてきた。霊光殿の背後の山が龍王山で、最上稲荷の境内からこの山の山頂へと登って行くと、最上稲荷の奥の院に到着する。その前を通過していくと大きな龍王池へでるが、この近くに八大龍王の石塚が祭祀されている。龍王池は龍王山山頂の水源であり、最上稲荷の霊光殿に祭祀される八大龍王は山頂龍王池の主であり、水の神でもある。龍王池を見ながら前進したところに「大最上山御瀧」龍泉寺と「最上の瀧」という荒行の滝があり、行者が滝行をする。
*1
「龍王池は龍王山山頂の水源であり」という記述にはちょっと引っかかる。龍王池は、龍王山南の備中高松平野部に比べると高原だが、一乗寺のある山頂からは西へ下る。
縁の宮
旧本殿(霊應殿)
旧本殿の脇の道を上る。
- *01 五来重編『稲荷信仰の研究』山陽新聞社 1985
特に、第一編「稲荷信仰の諸相」「第一章現代社会における稲荷社の祭祀形態」最上稲荷 - *02 五来重著『宗教民俗集成4 庶民信仰の諸相』角川書店 1995