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普門山松尾寺

醒井養鱒場の駐車場手前を右に上がると寺が経営する「醒井楼」があり、その背後に天台宗寺院の(現在の)松尾寺がある。もとの松尾寺は北北西の松尾山中にあった。山中の本堂は昭和五十六年に豪雪で倒壊し、平成二十四年にこの地に新本堂が落慶した。

 
松尾寺

 
松尾寺


天武天皇九年(680)に役小角が松尾寺山に入った、神護景雲三年(769)に興福寺の宣教が霊仙山付近に七ヶ寺を創建したが残存する唯一の寺だという、などが寺のパンフレットに寺伝として書いてある。
本尊は像高2寸8分の聖観音と十一面観音立像で雲形の上に並んで立っている。役小角が修行中に空中より飛来したとされる。元亀の法難の時に焼き討ちにあったが本堂が燃える中、自ら飛び上がって影向石に降りたといわれる。これらから空中飛行観音とか雲中飛行観音と言われている。そのため、昭和十年に各務原にあった岐阜陸軍飛行学校からプロペラを寄進されたりしている。

 
松尾寺

 
松尾寺


 
松尾寺

新本堂。横に資料館・集会所がある。
松尾寺


霊仙山(行政上は多賀町に含まれる)にあったという寺院(霊山寺)の位置は遺構が未発見なのでわかっていない。松尾寺の位置が示唆するように、伊吹山の四護国寺と同様に霊仙山周辺に寺院が散在していたように思われるが、それも考古学的には検証できていない。
また、霊仙三蔵に因んで命名されたとされる霊仙山の寺院と霊仙三蔵の関係もわかっていない。霊仙山という山名は、先祖がいる山というイメージで見られていた事に由来しているのかもしれない。

霊仙三蔵記念堂
松尾寺

 
松尾寺


 
松尾寺

 
松尾寺


石雲山西福寺

 
西福寺

 
西福寺


長岡神社の西北西あたりの曹洞宗寺院。400年ほど前に岐阜県不破郡関ケ原町今須にある妙應寺第六世心甫全智により開創された。明治二十八年に火災で山門以外を消失している。ご住職のお話では、昔は長岡の東に東福寺もあったという。

 
西福寺

 
西福寺


 
西福寺

 
西福寺


ご本尊の延命地蔵菩薩坐像
西福寺

子安観音像
西福寺


本堂脇の庭園<
西福寺

鐘楼
西福寺


 
西福寺


燕窓窠という茶室。地元の庄屋の迎賓用施設を移築した。茶室と言っても間取りを見るとバス・トイレ付きの一軒家として住める。


 
西福寺

 
西福寺


 
西福寺

 
西福寺


四国八十八番西国三十三所霊場の石碑が立つ。西福寺は近畿楽寿観音霊場の30番。

 
西福寺

 
西福寺


 
西福寺

これは神社のご神体だったのでは?
西福寺


 
西福寺

 
西福寺


一簣山多田幸寺ただこうじ

田村駅から徒歩で10分程度の田村山(一簣山)南麓に位置する臨済宗寺院。
昔、神様?が夜間に近江の土を運んで富士山を造っていたが、モッコ(簣)で運んでいる途中で夜が明けてしまった。モッコの土を捨てて出来たのが一簣山で、土を掘った跡が琵琶湖だという伝説がある。モッコで運んで造った山は伊吹山だという人もいた。

 
多田幸寺

 
多田幸寺


平安前期に造られたと思われる本尊薬師如来坐像は国の重要文化財(指定番号 0497)。
台座や光背が残っていれば国宝だろうとは、御住職の弁。

 
多田幸寺

 
多田幸寺


 
多田幸寺

 
多田幸寺



寺伝?では、摂津国多田を本拠地とした多田源氏の源満仲は、子の美女丸(美女御前)のできが悪いので家来に斬れと命じた。命じられた家来(仲光)は代わりに自分の息子の幸寿を斬り、その頸を満仲に見せた。その後、多田源氏の人々が幸寿を弔う為にこの寺を建立し、地名の「多田」に「幸寿」の「幸」の字を付けて、寺号を多田幸寺としたという。
これは能の「満仲」(観世流は「仲光」)の内容そのまま。能の「満仲」の元は幸若舞だったようで、能から借りた話なのか、幸若舞からなのかはわからない。

お稲荷さん
多田幸寺


 
多田幸寺

八坂神社
多田幸寺


小一条町の野神さん

小一条町


小一条町は現在の行政上では長浜市に属し、その南端に位置する。合併前は西黒田村に属していた。
文化的には東黒田に近似しているように思われる。

車の奥に祀られている。
小一条町の野神

山麓の山の口であり、川の畔でもある。
小一条町の野神


『長浜市史 6 祭りと行事』によると小一条町の集落から少し離れた山裾に大木と巨石がまつられている。地元では野神社もしくは野神とよばれる。この野神社がある付近の小字名は「野」となっている。この野神さんは蛇であり、水の神さんであると伝承されている。そのため、旱魅時には雨乞いの舞台ともなったことが伝えられる。かつて小一条町の惣蔵の二階には、ごのときに用いた太鼓が何十とあったと伝えられる。さらに、小一条町で火事がないのは、野神のおかげであるともいわれている。(略)さて、小一条町の野神行事は、八月二十日から二十一日にかけて野神社で行われている。二十日を宵宮、翌日は本日もしくは縁日といわれている。この日程は記億されているかぎり変更されていないという。行事名としては、「野神」もしくは「野神さん」とよぱれる。(略)小一条町では、九月二十三日に行われる順季喜びの際にも、白山神社と野神社の両方で灯明を灯す。白山神社は蝋燭灯明とし、野神社は土器灯明とする。これは天候がよくなったことと豊作がかなったことに感謝するためという。この順季喜びは。もともと十一月二十三日に行われるもので、秋の収穫が済んでから行っていた。このような野神とよばれる場所で行われる祭祀のみならず、神社での秋祭りのことを野神と称しているところが長浜市内ではいくつかみられる。*3

 
小一条町の野神

 
小一条町の野神


 
小一条町の野神

 
小一条町の野神


 
小一条町の野神

 
小一条町の野神


小一条町 白山神社

 
小一条町白山神社

 
小一条町白山神社


社務所?集会所?
小一条町白山神社

 
小一条町白山神社


神宮寺?あるいは祭神不明の境内社
小一条町白山神社

 
小一条町白山神社


 
小一条町白山神社


本殿へは更に石段を上がる。
その石段の上り口右側に下の写真の石碑がある。下に写真がある稲荷社の横にも類似の石碑がある。滋賀県神社庁のWebサイトには、境内社として稲荷神社と野神さんが記載されており、いずれか、または両方が野神さんと思われる。


 
小一条町白山神社

 
小一条町白山神社


 
小一条町白山神社


現在の祭神はイザナギとイザナミ。


お稲荷さん
小一条町白山神社

謎の石碑(野神?山ノ神?)ブロックで押さえるとは!
小一条町白山神社


拝殿
小一条町白山神社

本殿
小一条町白山神社


引用文献・参考資料
  1. *01 さんどう会/編『霊仙三蔵と幻の霊山寺』サンライズ出版 2001
  2. *02 市立長浜城歴史博物館/編『近江湖北の山岳信仰』サンライズ出版 2005
  3. *03 長浜市史編さん委員会/編『長浜市史 6 祭りと行事』長浜市役所 2002 308~310頁

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