葛飾柴又
柴又八幡神社
左上の説明に書いてあるように、この神社の本殿は直径約30mの円墳の上に建てられている。築造は6世紀末~7世紀初の後期から終末期の古墳。出土した遺骨などは、本殿背後の島俣塚に納められている。島俣塚の名の由来は、721年の戸籍に『嶋俣』という地名が書かれています。この「しままた」が「しばまた(芝俣、柴俣、柴又)」に変わっていきました。柴又という地名の原型は約1300年前にあるのです。嶋俣の嶋は、土砂がたい積して島のように土地が高くなっている場所のことで、俣は、川が合流したり分かれたりする場所のことです。
(http://www.city.katsushika.lg.jp/history/child/3-3-128.html)に依っている。下総型埴輪が出土しており、帽子を被った人物の埴輪が「寅さん埴輪」と呼ばれているとか。
経栄山題教寺(柴又帝釈天)
まず、明治29年築の二天門の彫刻に驚かされるが、
帝釈堂
内殿外周の10枚の法華経説話彫刻は、彫刻ギャラリーとして被われた回廊で保護されている。
法華経説話彫刻は、塔供養図、三車火宅圖、一雨等潤図、法師修行図、多宝塔出現図、千載給仕図、竜女成仏図、病即消滅図、常不軽菩薩受難図・法華経功徳図、法師守護図
大客殿と邃渓園
内殿の法華経説話彫刻の下絵的な彫刻
題教寺は、下総国中山(現・千葉県市川市中山)の法華経寺第十九世禅那院日忠の弟子の日栄が寛永六年?に日忠を開山として開いた。日蓮自刻とされる「帝釈天の板本尊」があったが行方不明となった。第九代亨貞院日敬の時、安永八年(1779)、本堂改修中の梁上にこれを発見した。その日が庚申だったので、庚申の日が縁日となった。
帝釈堂と祖師堂の間の渡り廊下には、柴又への道中の様子が彫られている。
人車鉄道の彫刻もある!
帝釈天出現由来碑
山本亭
茶室
矢切の渡し
矢切は対岸の地名なので、こちらからは矢切への渡しとなる。