御園
河桁御河辺神社(三河部大明神)
疣地蔵尊
疣地蔵尊由来
平安時代に柿御園が近衛領と成り京の都吉田神社某が供米を作る神田を設けるべく当村の西側黒い良質土の土地を探し当て水を引く工事がなされ狛井のトナリに吉田井を掘りその工事中に川底になる所から大きな石が出ました。これを当村一番の力持ちの茂助が一人で運び出しその形の良きを見て地蔵様として祀り一生懸命お参りしますと幼い頃から茂助の全身にあった疣がすべて除れ醜くかった彼は美しい立派な成年に成りました。これを知った近隣の人達も多く参拝され疣取り地蔵と呼ぶ様に成り側に流れる川を吉田川と名付供米を作る神田(しんでん)が有る事から村を神田(じんでん)と名付米作り周辺一帯を都で一番賑やかだった三條の名を用い三條町と名付ました。
疣取りお参りの仕方
社(やしろ)内のゴマ石を一個持ち帰り毎朝お茶を供えイボを石でさすり疣□様お願いします。全快したら石は隣の吉田川に流します。御礼は北を流れる愛知川から三個お返しします。
右は昔から語り継がれて来た疣地蔵尊の由□□□覚え書きしたものです。
北組地□□
愛知川と右岸
川合寺町の野神
川合寺町の山ノ神
川合寺の山の神は集落の南、三百メートルほど離れた場所にある。ご神体は自然石で、その周囲には数本の木が立ち並び、山の神の森を形作っているが、もともとの山の神は現在の八日市警察のあたりにあった。昭和五一年に区画整理で山の神がこの場所に移されることになり、もとの場所にあった自然石を持ってきて、今もご神体としてお祀りしているのだという
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山の神の旧地は、東近江市市役所などの行政機関が集中した一帯で、東近江市八日市緑町という町名になっいる。
外町の野神
外町の若松天神社
山神社跡と思われる*4
東近江市野村町 八幡神社
野村は、居住地域北東に県道328号線や八日市市街中心部への道、国道421号(八風街道)へ出る道の交差点があり、これらの道は交通量が多いのだが、不思議と町域は市街地化していない。
『滋賀県の自然神信仰』2に八日市市野村では毎年一月三日の早朝に集落の八幡神社境内で山の神祭りを行なっている。もともとは、集落から七、八百メートル南にある杉を山の神の御神木としていた。戦時中に飛行場の建設のため山林の伐採を命じられ、それ以降は石を御神体としていたが、さらに昭和四〇年代にその御神体も移転して八幡神社境内で祀るようになった。
という記述がある。つまり、八幡神社境内に山ノ神の石の御神体があることになる。また、野神(同じく八幡神社境内に合祀されている)
という記述があり、野神もここに祀られているようだ。
東近江市妙法寺町
北東から南西へ細長い町域の南西側半分は、名神高速道路の八日市インターチェンジに近く、八風街道が町域を通り抜けているので、市街地化が進んでいる。昔からの集落居住地も八風街道に近く、その一帯が市街地化の進展が北東部に及ぶのを防御しているように見える。
『八日市市史 第二巻 中世』3の記述では永仁三年(一二九五)の刻銘がある。大型の宝饉印塔で現在の総高約ニメートル、笠の様式が古式で一見して「これは古い」と直感できる古塔である。正面は塔身を舟型に彫り沈め、中に蓮花上に坐る阿弥陀像を彫る。その両側に永仁三年の銘そのほかが刻まれている。正面を除く他の三面の塔身は平面である。それぞれ三行に刻字があるが肉眼では読み取りがたい。川勝政太郎氏が拓本により読まれたところでは、〝(第一面)永仁三年乙未 二月十九日 (第二面)右志者為過 去幽霊成 仏得道石 (第三面)塔一基造 立之但当国 吉田四良次郎西円 (第四面)安主野神 雑賀三ヶ所 寄進也〟 とある。すなわち一二九五年の造顧、造立趣旨も明らかとなった。基礎は上面二段の造り出しで蓮弁なく、一般型の鎌倉様式格狭間を彫っている。次に笠は左右の張り約六〇センチメートル、基礎の横幅より小さくしている。その隅飾りが古式をもっともよく伝え、外隅は鉛直に立ち、内側は一個の弧線で、両隅飾り間に仕切りなく、平面的に連続しているのも古式である。上端は六段の段型を刻む。笠上部の相輪は以前は上半部だけで下半がなかったようだが、現在は下半部も見いだされたのか積み上げて復元されている。これも受花や宝珠など美しい姿で当初のものと判定できる。なおこの宝陵印塔は正寿寺のそれと比べて四年おくれるだけで型も大きく、堂々たる姿の古石塔である。
- *1 滋賀県教育委員会文化財保護課編『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』滋賀県教育委員会 2007 45頁
- *2 滋賀県教育委員会文化財保護課編『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』滋賀県教育委員会 2007 27頁
- *3 八日市市史編さん委員会編『八日市市史 第二巻 中世』八日市市 1983 631~632頁
- *4 「明治6年5月「近江国神崎郡外村地引全図」(八日市市史編さん委員会編『八日市市史 資料集 Ⅱ 八日市市の地名と景観』八日市市 1986 26頁)