萱津
『日本書紀』巻七(景行天皇)では、日本武尊が信濃から尾張に戻ってきた時に、尾張氏の娘の宮簀媛(みやすひめ)を娶り、しばらく滞在した。その後、伊吹山へ行くが、山の神を怒らせ「失意如醉」となる。居醒泉の水で醒めるが「病身」となり、尾張に戻るが宮簀媛の所には寄らずに伊勢に行ってしまう。『日本書紀』では、そこまでだが、伝承として、宮簀媛は迎えに行ったが、日本武尊は既に伊勢に行ったことを萱津で知る。そこで、この場所を「あわで(不遇)」の森と言うようになったという。
反魂香塚
反魂香は、焚くと煙の中に死者の姿が現れるという香。
天保15(1844)年に発行された『尾張名所図会』前編7巻の第七巻に、反魂香塚について大須の七寺の話と上萱津の『正法寺縁起』からの話が載っている。この下は、正法寺の話。
又正法寺縁起にしるせるは、当寺開祖東岩和尚この浦に草庵を結びて有りしが、光仁天皇寶亀十一年奥州信夫の里より若き夫婦 夫を恩雄(やすたか)、妻を藤姫といふ 上京せんとここまで来たりしに、藤姫病にかかりて遂に身まかりぬ。病中に一首の和歌をよみて恩雄に残せリ。
忘るなよ我身きえなば後の世のくらきしるべに誰をたのまん
と、恩雄これを見て悲歎のあまり東岩和尚を請じて営みをなし、その身は剃髪して弟子となり、藤姫の塚の辺に庵を結び、菩提をぞ弔ひける。此の時、恩雄は廿一才、藤姫は十六才也。法名を大空了覚信女といふ。其後、天応元年橋本中将関東に下向の折から、粟手の森の古蹟などここかしこ遊覧したまふに、彼恩雄法師が庵を窺い、本尊の薬師佛いと尊く、庵主も若き身にして殊勝に念佛せしを感じ、法師が身のなるはてをも思いたまふに、法師もしかじかと語れば、彼以て頓(に色を失ひ、泣く泣く語りたまふは、其藤姫こそ我奥州に左遷ありし時、賤の女の後にやどせしわが一子也。我帰洛の後、音信もせざりしが母は死して其子汝に嫁し、共に我を慕い上京せんとせしに、ここにて身まかりし事のはかなさにとて、遂に其師の東岩和尚を請じ反魂香を焚き、秘法をも修せしかば、香烟の中に二八の女性忽然と顕はれけるを、近づきて言葉をかわさんとせしかど烟と共に失せにけり。彼以は悲喜の泪をしぼりつつ、
魂を反す匂ひのありながら袖にとまらぬむかし悲しき
と詠じたまひければ、法師も
おもひきや花のすがたの香を留て烟の中に見なすべしとは
とぞ詠じける。夫より此の塚を反魂塚と呼びそめし也。
萱津神社
『尾張名所図会』には、「阿波手社」と書いてある。「草社(かやのやしろ)」と書いた史料もあるようだ。
萱津神社由緒
御祭神 鹿屋野比売神
尾張国神明帳に従三位萱津大神と所載 貞治本国帳に従一位上萱津天神と記す 昔草ノ社 または 種の社 と称し和歌で知られる阿波手の杜に神鎖まりす古社であります
太古 民族が肥沃な地を求め移り住み野を司る鹿屋野比売神を奉祀したのが始りとされる
当時の住居は茅・草葺きのもので有ったことから建物のカミと崇敬を得ると共に全国唯一の漬物の神また縁結びの神として広くご祟做を得ている
日本武題御東征の途参拝あり又代々の国司・国守の崇敬篤く室町時代初期には国守萱津左京太夫頼益公が神田六十貫文を寄進し元和年間には時の藩主徳川義直公より香の物領として石高五石八斗余の農地の寄進を受け明治初年まで続いた 昭和に人り社殿のご造営 境内の整備を行い終戦時には県社扱いの神社に記められた
今日の本殿は昭和二十二年に 拝殿は昭和四十八年に 会館は平成十一年にそれぞれご造営がなされたものである
主な祭典 (特殊神事)
献榊祭(縁結び祭) 四月第二日曜日
献詠祭 七月第二日曜日
香の祭 (漬物祭) 八月二十一日
例祭 十月 九日
境内北側に香の物殿・連理の榊奉安殿が祀られている
萱津神社社務所
薄くなって字は読みとれない。
阿波手森の伝承の続編?として、伊勢へ向かう日本武尊は、宮簀媛と会えなかったのと同じ悲しみを後世の人達が味わわないようにと、雌雄の榊を並べて植えた。それが連理(一つの木の枝が他の木の枝と相つらなって、木目の相通じること。〔精選版日本国語大辞典 小学館 2006〕
)となったという事で、萱津神社は縁結びの神にもなっている。
鹿屋野比売神は、『古事記』に次生山神・名大山上津見神、次生野神・名鹿屋野比賣神、亦名謂野椎神。
と出てくる野神。その像があるのは、全国でも此処だけではないだろうか。上の由緒の当時の住居は茅・草葺きのもので有ったことから建物のカミと崇敬を得る
は、妥当な解釈だろうが、漬物と鹿屋野比売神との関係についての右上の説明は、ちょっと無理がある感じがする。
昭和20年8月に堰の劣化か伏流水のためなのか、五条川から堤内地への水を止められなくなった。川底に龍神が棲むのではという事で龍神を祀ったということらしい。
この辺りの鳥居は、祭神にかかわらず神明鳥居が多い。やはり地理的に伊勢に近い故の傾向だろうか。
萱津の合戦は、天正21(1552)年、織田信長・信光と清州方(坂井大膳)との戦い
観音池(甚目寺松山)
観音池の観音堂当観音池は、遠く推古天皇の御代は、伊勢の海の入り江であって、江上の庄といわれていた。或る時、伊勢の国甚目村の人で龍麿という人、漁𢭐を業としておりました□□たまたま入り江□で網を投じた処、網に□かからせ給うたのが紫麿黄金の聖観音像であった。龍麿は歓喜合掌、其の入り江の側に草堂を建てこれを安んじ奉った。其の後次第に遠近の信仰を集め、何時となしか甚目寺観音となり本堂を創建した。時に推古天皇、五(五九七)年のであったという。
以後度々の隆替を重ね鎌倉時代の初期に至り聖観上人により再興がなされ現在に至るも、此の中興開祖の上人も建仁元年(一二〇一)十二月十八日造営完了と共に観音池のほとりで修法の最中に行方なく消えさられたという。是も仏の化身でなかったかと今も語り伝えられております。
其の□□□地が、甚目寺観音の発祥の地として、後世へ語り伝えるべく昭和五十三年七月(一九七八)甚目寺観音の本開扉(五十年毎)を記念□□碑を建立し保存□□ある。
聖観上人は、法花院の中興、大徳院の開基ともされている。
元は甚目寺境内の太子堂だったらしい。しかも、天台宗だったとか。貞永元(1222)年、住僧の円周が親鸞に帰依し真宗に改宗した。その後、寛文元(1661)年、春的が現在地に移転した。
説教源氏節記念碑(あま市西今宿)
説教源氏節は、新内語りであった岡本美根太夫(本名、梶川啓次郎)が、江戸浄瑠璃の一つの新内節を元に説経祭文を大坂で始め、名古屋に広め、弟子も多かった。明治10年代初めに『平家物語』を琵琶の伴奏で節をつけて語った平曲に対して源氏節と名乗ったと言われる{(((説経節+祭文→)説経祭文+新内)→説経祭文新内節)→説教源氏節}。
門人の岡本美里太夫(本名、中村伝吉)は甚目寺町西今宿の住人で、人形芝居付き説教源氏節を広めた。昭和五十年(1975年)に六代目家元岡本美寿松太夫(本名、服部松治)の死去で途絶えたが、「もくもく座」が復活・存続させようと頑張っている。
二代目、岡本美寿尾太夫と、三代目、岡本小美寿太夫を顕彰
発起人は、四代目、岡本美寿清太夫