五智山蓮華寺
御室仁和寺のすぐ東隣にある真言宗御室派別格本山五智山蓮華寺。下に京都市の説明板の写真があるが、天喜五年(1057)に藤原康基が後冷泉天皇の御願で広沢池の北西に建立。この周防守藤原康基という人物についてはどうもよくわからない。藤原長房のことだろうか?応仁の乱で焼失し鳴滝の音戸山山腹に移されたが荒廃していった。寛永十八年(1635)に江戸の豪商だった樋口平太夫翁が発心し常信と号して木喰の修行をした後に再興。この時、山頂に但唱に依頼して造像した石造五智如来を安置した。堂宇は火災に遭い昭和三年(1928)に現在地へ移転した。昭和三十三年(1958)に音戸山中に散在していた石仏が集められ修復されて安置された。
とにかく目につくのは石造五智如来坐像。向かって左から、釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来、宝生如来、薬師如来と並ぶ。
これらの石仏は真鶴で造像され、はるばる運ばれてきた。
釈迦如来
阿弥陀如来
大日如来
宝生如来
薬師如来
但唱作の石造仏を見ることが出来る京都の寺院としては、他に因幡堂がある。
五智如来の後ろにも様々な石造仏が並ぶ。地蔵菩薩も含め僧形の石仏が多い。右下写真の右側の合掌している僧が但唱だという。
不動堂には本尊石造五智不動尊像が祀られている。
御室太鼓の練習場所でもあるとか。
鐘楼
五位山法金剛院
五位山は寺のすぐ北隣の小山だが、明らかに古墳。しかし鳥羽天皇皇后璋子花園西陵ということで宮内庁が立入禁止にしてしまっている。
それはさておき、東隣のマンションがなければとても美しい庭園。
廣澤山遍照寺
宇多天皇の皇子敦実親王の子(つまり宇多天皇の孫)である寛朝(かんちょう)が永祚元年(989)に円融上皇の御願により広沢池畔の北西に建立したと言われる真言宗寺院。寛朝は真言宗広沢流の流祖。後次第に荒廃した。近世になって現在地に再興された。国指定の重要文化財の本尊十一面観音立像と赤不動明王坐像は平安時代のもの。特に優美な十一面観音像に惹かれる。
旧地の遍照寺は、『今昔物語集』第廿四の第十六「安倍晴明、忠行に随ひて道を習ふ語」の中に出てくる蝦蟇を殺した話に「廣澤の寛朝僧正と申しける人の御房に參りて」とあるので、その舞台と言われる。