堅田 のスナップ
本堅田から今堅田あたりの湖岸沿いは見どころも多く、浮御堂などスポット的にではなく、観光や散歩に向いた線や面として整備してゆく余地がありそうだ。
本堅田
都久生須麻神社にて
右は龍神様か?
浮御堂
海門山満月寺という山号も琵琶湖の一番くびれているびわ湖大橋のすぐ近くという地理的位置に相応しい。
恵心僧都源信創建だそうだが、一時荒廃したのち、大徳寺によって復興されたので現在は臨済宗のお寺。
お堂の中は、航行の安全祈願をした千体仏(阿弥陀仏)がびっしりと置かれている。
歌川広重の近江八景「堅田の落雁」では右下に浮御堂、その左には堅田港停泊中と思われる船が描かれている。
形の良い老松。
観音堂。
松の枝を横に伸ばそうとしていて、
既にかなりの長さになっている。
禅寺風の門。
湖上から。
"国立国会図書館デジタルコレクションの広重近江八景より「堅田落雁」
妙盛寺
本堅田の神田神社
主祭神は鴨玉依姫命と下鴨神社の御厨だったことを物語る。
伊豆神社(伊豆神田神社)
神社の周囲は水路で囲まれているが、室町時代前後の堅田は、この伊豆神社(大宮)の周りに宮ノ切(北ノ切)という石垣で囲まれた地域を中心に、浮御堂の西南の東ノ切、西ノ切、それに堅田内湖(ないこ)の北側の今堅田を加え堅田四方と言われた。
この説明に書いてあるように、室町時代にはこの神社を中心に宮座という自治組織ががあり、湖族と呼ばれた殿原(とのばら)衆と全人(まろうど)衆による会制で運営されていた。湖上での自由通行権を持ち、舟運や漁業を広範に行なうとともに、湖上の関所の1つである堅田関の管理や湖上を渡る船を承認し安全に航行させる力(上乗権・うわのりけん)を持っていた(大津市歴史博物館のサイトより)
堅田の人々の中で「堅田関の管理」や「上乗権」を持っていたのが殿原衆だろう。
「宮座」そのものは神社の氏神の祭祀を扱う組織で西日本に広く存在した(している)。
時代により祭神が変わってしまうというのも面白い。
光徳寺
堅田の源兵衛の逸話は有名なので、三井寺周辺にも堅田の源兵衛の頸を安置しているとする等正寺や、両願寺がある。
本福寺
浄土真宗の寺で、寛正の法難(1465年:寛正六年)で本願寺を比叡山の僧兵達に襲われ京都を脱出した蓮如が一時滞在したという。
しかしその後、堅田本福寺破門など浄土真宗内紛の舞台にもなった。
ここも松の枝を水平に伸ばすのにご熱心。
祥瑞寺
一休が修行したという。
天然図画亭(てんねんずえてい)。妙な名前だけど殿原衆の豪族居初(いそめ)家の屋敷の茶室と庭園。見学は要予約だそうで。
出島(でけじま)の燈台
今堅田一丁目の湖岸にたつ出島(でけじま)燈台は、明治8年(1875)の建造で、高さは約10mあります。この付近は、琵琶湖の最狭部で岩礁も多く船の事故が絶えませんでしたが、明治8年2月、付近で船が沈没し47名が死亡するという惨事がおこったのを契機に、この燈台がたてられ、以来湖上航路の安全に貢献してきました。昭和26年(1951)には燈台の燈火も消え、以後老朽化が進みましたが、昭和48年、地元の保存運動で復活しました。
大津かんきょう宝箱(http://www5.city.otsu.shiga.jp/kankyou/public/view.asp?piid=02030200100190&view=1)より
湖上から。
イーゴスとびわ湖大橋
ベトナムへ引っ越し準備中のイーゴス(2013年10月)
びわ湖大橋
びわ湖の眺め。イーゴス108だってまだ見える。