近松寺から長等神社へ
その2
2011年1月-2012年1月
小関越道標
「左り三井寺 是より半丁」、「右小関越 三条五条いまくま 京道」、「右三井寺」。右に行くと何処に着くんだ?
左に並んで立っているのは、小関越を少し行ったところにある等正寺の道標。「げんべゑのくび」とは堅田源兵衛の頸のこと。蓮如が園城寺に預けてあった親鸞の御真影を山科本願寺を創建した時に返してもらおうとしたら、園城寺側は生首を二つ持ってくれば返すと言った。堅田の源兵衛は父の漁師の源右衛門に自分の首を切って持って行ってくれと頼んだので、源右衛門は息子の首を切り、それを持って園城寺に行き、自分の首と子供の首二つで御真影を返すように言った。園城寺は父の首は要求せず御真影を返したとか。その源兵衛の首が、等正寺と堅田の光徳寺二箇所にあるというのはいったい?
等正寺はこんなお寺。
等正寺と道を挟んで向かいの新光寺の先へ行くと右手は墓地。
長等神社
明治時代の建築だが室町時代の様式にのっとったという楼門は参道にあたる道の東端からも目立つ。
(左下)智証大師円珍が園城寺守護のために日吉大社東本宮の
昔は新宮社と言われていた。元々は長等山の山頂の方の磐座を祀った神社だったらしい。
(右下)大津馬神社。競馬関係者が参拝に来るようで、競走馬っぽい名前の札が覆屋の正面両側に並んでいる。昔は、札の辻にあったが、京津線の建設時に、ここに移されたそうだ。馬は、旅と農耕に重要だったから、その安全・健康を祈願したのだろう。
お稲荷さんにも色々ある。
こういう石の信仰は好きです。
「さざなみや 滋賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」
(薩摩守忠度)の碑
三井寺南別所両願寺
ここにも堅田の源兵衛の頸を安置していると書いてある!?
事情はわからないが、園城寺が面倒をみて整備してやれないものなのかな?