木之本町木之本・千田・田部・高月町洞戸・木之本町小山・古橋・石道
木之本宿
江北図書館(こほくとしょかん)
私立の図書館
余呉出身の弁護士杉野文彌が明治三五年(1902)に余呉の中之郷に設立した杉野文庫が前身。その後、木之本へ移転し明治四〇年(1907)財団法人江北図書館となり、昭和一二年(1937)に旧江北銀行の建物へ移転。昭和五〇年(1975)に現在の伊香農業協同組合の建物へ移転した。
資金面で運営が大変なのは容易に想像できる。ボランティアの方々が交替で出勤している。
木之本町伊香高等学校の野神さん
木之本町千田 の野神さん
千田は、唐川・
かつて野神さんがあった場所は北陸自動車道の建設でつぶされてしまった。この写真の背後のあたりになるはず。そこで近接するこの場所に石碑が立てられた。
ハンの木が残されている。
木之本町田部の野神さん
木之本地蔵(浄信寺)の南側の道を東に歩いてゆく。この一帯には県立伊香高等学校、「こども園」、木之本小学校、木之本中学校が南北に並んでいる(15年間この辺りに通い続ける子もいるということになる)。その先の田部の北端あたりにある榎が野神さん。伊香高校の周辺には北の田上山の方から流れてくる赤川を利用した溜池が幾つかあるが、その赤川は「きのもと認定こども園」、木之本小学校の東を流れており、そこに東側の山からの小川が合流する。こうした土地なので耕地として拓かれたのだろう。
高月町洞戸
瓢箪塚古墳
左の写真の説明では、6世紀中葉築造の全長30m以上の前方後円墳。
県道281号線から洞戸の集落へ北に上がると延命地蔵堂がある。
地蔵堂を右折(東へ)し、柵の切れ目から山に入る。
高月町で唯一洞戸の「野神さん」だけは「山の神」との親近性を感じさせる。
集落のメインストリートを上がった突き当りには日吉神社。
木之本町小山の野神さん
周辺も含めて比較的新しい「野大神」の石碑
木之本町古橋
紅葉の名所としては「鶏足寺」として知られている。己高閣・世代閣から、石道寺も含め遊歩道が整備されている。
「近江己高山・近江己高山観音寺跡・近江己高山及び一山諸廃寺」の飯福寺伽藍伽藍配置図にあるように、左右に僧房跡の岩組みが続いている。
本堂と護摩堂は21世紀ゼロ年代に建て直されたのだろう。中を見ることは出来なかったが真新しい建物。
旧飯福寺、己高閣・世代閣
このページの寺々は東の己高山(こだかみやま)にあった寺との関係で見てゆく必要がある。
己高山にあった寺については、己高山山岳寺院の調査や、近江己高山・近江己高山観音寺跡・近江己高山及び一山諸廃寺に詳しい。
これだけの規模の寺院群が存在し、消えてしまったという事だけで十分に興味をそそられる。
旧戸岩寺と興志漏神社(よしろじんじゃ)
興志漏神社は神仏分離令で独立してしまったが、恐らくそれまでは戸岩寺と一体となった神仏習合の形態だったのだろう。ただ、「近江己高山・近江己高山観音寺跡・近江己高山及び一山諸廃寺」に書かれているように戸岩寺の単なる鎮護社ではなく村の氏神様としてそれなりの扱いはされていたのではないだろうか?
薬師堂。興志漏神社拝殿の手前、右側にある。
大日堂。これも薬師堂の手前にある。
鐘楼。薬師堂の手前にある。
己高閣・世代閣(ここうかく、よしろかく)
興志漏神社の右手にあり、己高閣は鶏足寺にあった十一面観音などを収蔵している。
己高閣の後ろにある世代閣は戸岩寺にあった薬師如来像などを収蔵している。ちょっと顔にしまりがない薬師如来だった。他に地獄絵や浅井長政の書簡、お市の方が寄贈した屏風など。
「一時は農薬のせいで減っていたんですがね。最近はそれほど強い農薬を使わなくなったので、また、沢山咲くようになってきたんですよ。」
木之本町古橋の野神さん
野神さんの石碑は集落と山裾の畑との境界に祀られている。この集落では野神さんと下に示す山の神の両方を祀っているが、いわゆる両神の春秋交替説は感じられず、別のカミとして認識されているようだ。
木之本町古橋の山の神
古橋は高時川両岸にわずかに田地があるが、村域のほとんどは己高山西斜面での山仕事を生業とした山村の性格が強い。
木之本町石道
石道寺
本尊の十一面観音像は口紅が赤いまま残っている。女っぽいと言うか、ちょっとおばさんっぽい顔立ち。
石道(いしみち)の野神さん
井明神橋東詰めからまっすぐ東に行くと石道の集落。集落の先に石道寺がある。
石道の田地は集落の西南西に広がる。野神さんは集落の南にある。その南西にはあまり広くはない田地が広がるが、東の己高山や山田山の麓でもあり、かつては山の生業の比率が高かったのではないかと思われる。野神さんは榎の巨木だったが、枯れたので石の塚を築いた。
野神祭は8月18日。郷廻りの太鼓踊りがある。
『近江国伊香郡二十七ヶ村耕地絵図 近江国伊香郡石道村(近江国各郡町村絵図 』に「の神」が見える。この絵図は明治初期に彦根県が製作したもの。彦根県は明治四年(1871年)夏に廃藩置県で成立し、秋には第1次府県統合で長浜県になっている。従ってこの絵図は明治四年に彦根県が成立した直後に制作され、旧彦根藩領から継承した状態を表していると考えられる。彦根藩は高月町に多くの所領を持っていた。
- *01 日本荘園データベースの検索結果(詳細)
https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/getdocrd.pl?tn=2&ti=2111002&h=./history/w11565334545_25094&ch=2&p=param/soue/db_param&o=1&k=20&l=&sf=0&so=
2019.8.9確認 - *02 「ムラの戸籍簿」データベースの検索結果
https://drfh.jp/mura/index.php?title=%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD#.E4.BC.8A.E9.A6.99.E9.83.A1
2019.8.9確認 - *03 滋賀県神社庁
http://www.shiga-jinjacho.jp/
2019.8.9確認 - *04 『新撰姓氏録』氏族一覧
http://kitagawa.la.coocan.jp/data/shoji.html
2019.8.9確認