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北白川城、雲母(きらら)

北白川城


狸谷山三十六童子めぐりの最後の部分だけ。


瓜生山の頂上。(北白川城本丸跡)


お地蔵さんの引越し先はこちらです。


出丸跡には近代産業遺産が放置されている。


雲母坂(きららざか)

水飲対陣跡
一旦九州へ逃れた足利尊氏は態勢を立て直し湊川で楠木正成を破り、新田義貞軍を追って京都に入ったが、後醍醐天皇は比叡山へ逃れた。千種忠顕は鎌倉幕府倒幕を試みて失敗した元弘の乱から後醍醐天皇の側近だったが、足利直義に責められてここで戦死したという。
なぜ「水飲」という地名なのかわからないが、坂を上ってきて水でも飲みたくなる場所であることは間違いない。
これを含め、ここらは大正10年頃に立てられた石碑ばかりだが、時代背景として国粋主義に染まっていた時期でもないので動機不明。

浄刹結界跡碑
比叡山延暦寺の境界を示すものだが、これも大正時代に立てられたものでこの碑自体に歴史的価値があるとは思えない。



浄刹結界跡碑に行く道の入り口のお地蔵さん。

千種忠顕卿戦死之地碑
大正時代に立てられた石碑。
千種忠顕は太平記の巻第十二「千種殿竝文観僧正奢侈事」ではその奢りぶりが描かれているが、巻第十五「山攻事付日吉神託事」で先一番に中書王の副将軍に被憑たりける千種宰相中将忠顕卿・坊門少将正忠、三百余騎にて被防けるが、松尾より攻上る敵に後を被裹て一人も不残討れてけり。と最期を遂げる。
「西坂」つまり西坂本で死んだことになっているのだが、その現地が左京区修学院音羽谷というのは昔と今の国境・府県境の違いだろうか?



雲母坂を上る。

日を改めて修学院離宮南から水飲対陣跡へ登ってみた。

音羽川に沿って歩く。修学院離宮と曼殊院との間になる。




字が薄くなってしまっていてよく読み取れないが「親鸞聖人御旧跡雲母坂」の石碑と説明板。


雲母寺(うんもじ)跡。

修学院離宮の東端外側の道を北上するが、木々が邪魔して離宮の中を覗くのは困難。



この感じが昔の雲母坂か。

道は東に曲がるとかなり歩きやすくなり水飲対陣跡の三叉路に出る。下の写真は三叉路から雲母坂を振り返って見たところ。



やどり地蔵

叡山ケーブルの終点から少し南に行ったところ。


比叡山スキー場

かつて比叡山にスキー場があった。
別に地球温暖化で比叡山に雪が積もらなくなったわけではなく、もともと人工降雪のスキー場だった。京福の経営だったようだ。

比叡山スキー場

比叡山スキー場