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滋賀里から山中越へ

京都の「北白川」バス停で今出川通から分かれて志賀越道が始まるが、その反対側の一方の端が、ここになる。
ほぼ京都府道・滋賀県道30号だが、30号線は、京都側は御蔭通-北白川別当町-北白川仕伏町、滋賀県側は山中越となって西大津バイパスの南志賀ランプに出る。
京都側の石仏は、ここを参照。

滋賀里


百穴ひゃっけつ古墳群

百穴古墳群

左の説明文は以下のとおりです。
中学生あたりを対象としたと思われ、平易だが特徴はきちんと書いてある。



百穴古墳群

(大津市滋賀里町甲)

  百穴古墳群は今から約1400年前(古墳時代後期)に造られた墓が多く集まったところです。これらの墓は、大きな石を上手に積み上げて造られた石の部屋(横穴式石室)を土でおおったものです。石の部屋は、死んだ人を納める場所(玄室)と、これと外とを結ぶ細い通路(羨道)とにわかれています。表から見ると、この通路の入り口が穴のように見えます。この穴がたくさんあることから、「百穴」という名前がつけられました。
  石室の壁の石は、天井に向かうにつれて少しづつ迫り出して積まれているため、天井はドーム状になっています。石室内には二、三人の人が葬られており、死んだ人は、時には金のイヤリングや銅のブレスレットなどで飾られ、北石の棺桶に入れられました。また、石室内には、多くの土器(土師器、須恵器)もいっしょにおさめられました。この仲には、お祭り用のミニチュア炊飯具セット(カマド・カマ・コシキ・ナベ)も含まれています。
  古墳時代後期、古墳群は全国各地でたくさん造られましたが、この百穴古墳群のように、石室の天井がドーム状で、ミニチュア炊飯具セットが納められているという特徴は、大阪・奈良・和歌山の一部にも認められますが、ほとんどが大津市の坂本から錦織にかけての地域だけに見られるものです。現在までの研究では、これらの特徴は、遠く中国や朝鮮半島からやって来た人たちと、深く関係するのではないかと考えられています。
  昭和十六年(一九四一)年一月、国指定の史跡となりました。

大津市教育委員会

平成四(一九九二)年三月

百穴古墳群

百穴古墳群


百穴古墳群

百穴古墳群


百穴古墳群


百穴古墳群

百穴古墳群


百穴古墳群


百穴古墳群

百穴古墳群


志賀の大仏おぼとけ

志賀の大仏


志賀の大仏

志賀の大仏


志賀の大仏

志賀の大仏


石仏の背後。
ここにも何か彫ってある感じもするが読み取れない。

阿弥陀如来像のはずですが…。
一行山稱念寺は地元・滋賀里にある浄土宗寺院。


滋賀里

志賀の大仏


崇福寺すうふくじ

大津京の鎮護の為に大津遷都翌年(668年)に天智天皇勅願で建てられたとか。(歴史的には、壬申の乱でその甲斐はなかった…)
北尾根からは弥勒堂、中尾根から小金堂、塔、南尾根から金堂、講堂跡が見付かった。
中尾根の塔の芯柱の礎石(心礎)の側面にあけられた舎利孔から舎利容器が発見されたのが有名。
南尾根の遺跡は桓武天皇の勅願で建立された梵釈寺(ぼんしゃくじ)跡とする説が有力。
天台宗山門(延暦寺)と寺門(三井寺)の争いに巻き込まれたりして、鎌倉時代末か室町時代初めに廃寺となったらしい。


崇福寺跡

崇福寺跡


崇福寺跡

雪のため金堂跡にしか行かずに終わった。


崇福寺跡

崇福寺跡


ここは金堂跡なので梵釈寺の跡かな?