瀬田の唐橋、建部大社
2011年1月・2015年9月・2023年3月
瀬田の唐橋と龍王宮秀郷社
左岸(西側)にある明治七年(1874)開設の鳥居川水位観測所。ここの量水標の零点高が琵琶湖水位の基準高となると書いてある。
Mystの世界。
擬宝珠の施工者、鋳造者は新旧色々。
瀬田の唐橋は塗装色が変わる話があるので、2011年年初の状態を記録しておいた。
広重近江八景国立国会図書館デジタルコレクション
塗り替えられてこうなった。
右上の瀬田橋での出来事に若干追記して略史を作ってみた。
- 壬申の乱、天武天皇元年(672)七月二十二日、「辛亥、男依等到瀬田。時、大友皇子及群臣等、共營於橋西而大成陣、不見其後。旗旘蔽野、埃塵連天。鉦皷之聲聞數十里、列弩亂發矢下如雨。其將智尊、率精兵、以先鋒距之。仍切斷橋中須容三丈、置一長板。設有搨板度者、乃引板將墮。是以、不得進襲。於是、有勇敢士、曰大分君稚臣。則棄長矛・以重擐甲・拔刀急蹈板、度之。便斷着板綱、以被矢、入陣。衆悉亂而散走之、不可禁」(『日本書紀』卷第廿八 天武天皇 上)
この橋は昭和六十二年(1987)からの川床の発掘調査の出土土器や部材の年輪年代から現在の唐橋の約80m下流にあったとされる。この橋の構造は、川底に横木を並べ、その上に六角形に組んだ部材を乗せた橋脚台が築かれ、その各辺毎に橋脚を建て上げるという構造で、よく似た構造の橋が韓国慶州でも見つかっており、朝鮮半島からの渡来人の技術が用いられていると考えられている。 - 藤原仲麻呂(恵美押勝の乱)の乱、天平宝字八年(764)9月、「其夜、相招黨與、遁自宇治、奔據近江、山背守日下部子麻呂、衛門少尉佐伯伊多智等、直取田原道、先至近江、燒勢多橋。押勝、見之失色、即便走高嶋郡」(『続日本紀』卷廿五 淳仁紀五)と、宇治経由で近江へ向かった恵美押勝を、山背守日下部子麻呂と衛門少尉佐伯伊多智の軍は宇治田原経由で先回りし、勢多橋を焼いてしまった。
- 『更級日記』には
勢多のはしみなくづれて、わたりわづらふ。
とあり、1020年頃は、まともに渡れる状態ではなかったようだ。 - 文治三年(1187)先月(九月)十九日、斎宮一行が伊勢へ向かっている時、勢多橋が破損しており、船で湖を渡った。(『吾妻鏡』)
- 建久六年(1195)三月四日、再建された東大寺の落慶供養に向かう源頼朝は、比叡山の衆徒が集まっているところを騎馬で橋を渡る。(『吾妻鏡』)
- 承久三年(1221)の承久の乱では、雨の六月十三日、進撃する幕府軍に対し官兵は橋の中二間の板を外し、楯を並べ弓矢を揃え、比叡山の僧兵等が待ち構えた。翌日も雨だったが、幕府軍は官兵を破った。十五日には、宇治と勢多で官軍を破った幕府軍が入洛する。(『吾妻鏡』)
- 貞応二年(1223)に書かれたと言われる京から鎌倉へ下る紀行文『海道記』では、作者(不詳)は、四月四日に京を出発したが、雨にたたられて勢田の橋の手前で暫く留まった。
平安・鎌倉時代の橋は、古代の橋と現在の橋の間にあった。 - 天正三年(1575)七月、「さる程に、江州勢田の橋、山岡美作守・木村次郎左衛門両人に仰せ付けられ、朽木山中より材木を取り、七月十二日吉日の由に侯て、柱立つ。橋の広さは四間、長さ百八十間余。双方に欄干をやり、末代の為に侯の間、丈夫に懸け置かるべきの旨、仰せ付けられ侯。」(『信長公記』)
この橋は現在と同様、中島の東の大橋と、西の小橋の形になっていた。 - 天正十年(1582)6月2日、本能寺の変の後、山岡美作守(山岡景隆)は明智光秀からの同心の誘いを断り、光秀の安土への進軍を妨げるために勢田の橋を焼き落した。(『信長公記』)
- 元禄一年(1688)「五月雨に かくれぬものや 勢田の橋」芭蕉
右岸(東側)にある唐橋流心水質自動観測所。
東詰めの両側には常夜燈が立つ。
東詰めの信号を渡ったところには田上の太神山不動寺への道標
道標に従って龍王宮秀郷社へ。
瀬田橋竜宮(龍王宮秀郷社)
取水鉢の龍が4年の間に増殖していた。
金毘羅宮
拝殿
右上の縁起は写真ではよく読み取れないが、勢多之唐橋 龍宮 古来瀬田川には龍神が御座ると言はれて、昔は橋を社とした。唐橋中央に特殊な橋クイが打ち込んであって、是を龍神の御霊代とし舟はこの神座を通るのを恐れた。唐橋は神橋の転化である。西暦1440年頃、佐々木近江守が蛍谷に在った橋を現在の処へ架替えた時、工事中水底の龍神を遷座する権殿として此の社が設けられた。以来橋架替え大修理の都度、龍神を権殿に遷座する慣例が行われた。時代の推移はいつしか権殿が本宮になった。
と書いてある。
祭神は、大神霊(オーミタマ)龍王と藤原秀郷。
藤原秀郷(俵藤太)が、この龍神の頼みで三上山を七巻半する大ムカデを退治した伝説は有名だが、そのお礼に龍神からもらったものの中に赤銅の鐘があり、これは三井寺の「弁慶の引摺り鐘」という事になっている。
建部大社
当社は、古来建部大社、建部大明神と称え、延喜式内名神大社に列し、又近江国一ノ宮として朝野の崇敬篤く長い歴史と由緒を持った全国屈指の古社である。
(右上、御由緒の冒頭)
ただ、文化財は少なく観光的?には面白みが少ないところ。白州正子さんならば重文の木造女神坐像に興味を持たれたかもしれない。
大野神社
大野神社の祭神は草野姫命。『日本書紀』の次生草祖草野姬、亦名野槌
のこと。地主ノ神ニシテ天平勝宝七年建部大神ヲ大野山ノ麓廣庭ニ遷座ナリシ以前ヨリ此地ニ鎮座ノ神ナリ其創立年月不詳〔滋賀県立公文書館デジタルアーカイブ神社明細帳No.3 編次2(明-す-1)〕