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長等山園城寺中院(1)

2011年1月~12月


大門

湖南の常楽寺から伏見城へ移築され、更に徳川家康によりここに移築された。
徳川家康は1601年に関ヶ原の戦いに勝利した後、前年の伏見城の戦いで焼失した伏見城を再建したが、その時にこの大門や三重塔を寄進したらしい。とすると、不思議なことに伏見城の戦い(家康が会津攻めに向かった後、伏見城を守っていた鳥居元忠を反家康派の宇喜多秀家以下が攻撃し約2週間籠城したのち落城した。三十三間堂の東の養源院などにその血天井がある。)でこれらの建築物は焼けなかった事になる。ただし三重塔は観月橋のそばにあり城内ではなかったようだ。

大門

大門


大門

大門


食堂(釈迦堂)

大門を入った右側にある。

食堂

食堂


弁財天社

弁財天社。
小さな社だが、中には八臂の弁財天像が祀ってあるようだ。


金堂

屋根のカーブが美しい。内陣の背後(後陣)には色々な仏像が置かれていて拝観できる。尊星王(妙見さん)など、特に魅力的。


金堂

金堂


金堂

金堂


教待堂

金堂の裏側にある。説明板は消えかかっていて読み取れない部分が多いが、教待和尚の像を安置する。寺門伝説によると和尚は智証大師入山まで当寺を護持していた不思議な老僧で貞観元年大師の御入山を迎えるとともにこの草庵に入り姿が見えなくなった。この堂は慶長四年に再建されたもの。といった内容が書いてある。教待和尚については三井寺のWebサイトの「伝説」-「教待堂」のページや「歴史散歩」-「その(8) 『古今著聞集』と三井寺」に詳しい説明がある。

教待堂

教待堂


円珍像

金堂の真裏に位置する。
円珍像を中心にした明らかに近年の作。


熊野権現社

金堂の裏。修験道本山派の本寺は聖護院だが、そもそもは、寛治四年(1090年)の白河上皇の熊野詣で先達となった園城寺の増誉が、その功で熊野三山検校となった事が発端。こうした熊野修験とのつながりが見て取れる。

熊野権現社

熊野権現社


閼伽井屋

天智天皇と天武天皇は同父同母の兄弟。持統天皇は天智天皇の娘で天武天皇の后。父の舒明天皇の時代は飛鳥が都だから、わざわざ産湯をここまで汲みに来たとは考え難いけれど、通称「三井寺」の名はこれが起源。


閼伽井屋

閼伽井屋


閼伽井屋

閼伽井屋


閼伽井屋

閼伽井屋


閼伽井屋

閼伽井屋


閼伽井屋


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三井晩鐘の鐘楼

鐘楼

鐘楼


鐘楼

近江八景の一つ「三井晩鐘」の鐘がこの鐘の音を意味しているのかは、観音堂の鐘なども聞こえるので単純には断じられないが、素直に解釈すればこの鐘だろう。
国立国会図書館デジタルコレクションの広重近江八景より「三井晩鐘」


天狗杉

天狗杉

天狗杉


勧学院で修行していた妙覚道了は、ある夜、突然天狗となって窓から飛び出し、一旦この杉の上に止まり、 朝と東の空に飛び去った。
行き先は了庵慧明が開こうとしていた大雄山最乗寺(の建設予定地?建設現場?)だった。

光浄院

光浄院

光浄院


光浄院

事前に葉書で申しこめば拝観できるようだ。


霊鐘堂

霊鐘堂

俵藤太が琵琶湖の龍神から三上山の百足を退治したお礼にもらった鐘という謂れが書いてある。俵藤太は龍王宮秀郷社に祀られている。
もっとも、『古事伝』という鎌倉時代に書かれた、8世紀から12世紀あたりのゴシップ的な言い伝えをまとめた本では、「園城寺鐘の事」(5-34)として「粟津の冠者が一堂を建立し、鐘を鋳るための鉄を求めて出雲国に船で向かっていたら大風が起こり沈没しそうになった。その時、童が舵をとった小舟が現われ乗り移るように言った。乗り移ると小舟は海に潜って竜宮へ行った。竜王が現われ、大蛇に仲間が大勢殺されている。今日、現れるので矢で退治してくれと頼む。冠者は承諾し楼に上って待ち構えていると、大蛇が仲間を連れてやって来る。冠者が鏑矢を大蛇の口に射ると、矢は舌を切り喉の下に突き刺さった。そして逃げる大蛇に向かって更に胴体を射った。竜王は喜んで、何でも願いを聞いてあげると言ったので、冠者はお堂の鐘が欲しいと言った。竜王は、お易いことと竜宮のお寺に釣ってあった鐘を下ろしてくれた。」(『新注古事談より要約)という話が載っている。この話には、「この寺は廃寺となってしまったが、住持の僧が園城寺に鐘を売ってしまった。この寺は山門派の寺だったので、この僧は山門派の衆徒によって琵琶湖に沈められた。」という後日談が付いている。
いづれにしても、山門派の弁慶を逆手にとって観光名所にしたような感じ。弁慶の引き摺り鐘はともかく、汁鍋まで結びつけてしまうのだから江戸時代?の寺門経営はご立派。


霊鐘堂

霊鐘堂


霊鐘堂

霊鐘堂


霊鐘堂

霊鐘堂


孔雀

孔雀

孔雀


孔雀

孔雀舎の脇にある宝篋印塔。
なんの説明もないが、何故こんな所にあるのかが気になった。


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一切経蔵

一切経蔵

一切経蔵


一切経蔵

一切経蔵


一切経蔵

一切経蔵


三重塔

説明にあるが、奈良県大淀町にあった比曽寺の東塔を慶長二年(1597年)?に豊臣秀吉が伏見に移築し、慶長六年(1601年)に徳川家康がここに移した。

三重塔

三重塔


三重塔

三重塔


三重塔

三重塔


唐院灌頂堂、長日護摩堂

灌頂堂

灌頂堂


灌頂堂

灌頂堂


灌頂堂

中央に智証大師坐像(中尊大師)、向かって左に円珍の舎利(遺骨)を納めたという智証大師坐像(御骨大師)、右に黄不動尊立像を安置する。

灌頂堂

灌頂堂


灌頂堂


灌頂堂

灌頂堂の後ろには大師堂。
秘仏(画)の黄不動(金色不動明王尊)は、ここにあるとか。


長日護摩堂

長日護摩堂

長日護摩堂


唐院

唐院

灌頂堂、大師堂への道の左隣に唐院への入口が別にある。


村雨橋

長安の青竜寺は円珍が密教を学んだ寺。


村雨橋

村雨橋


勧学院

勧学院

勧学院客殿は国宝。狩野光信の障壁画が有名。
事前に申しこめば拝観できるようだ。


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三尾明神影向石


三尾明神影向石

三尾明神影向石


勧学院から山に向かう日を辿ると、やがて上三尾社の跡地と普賢堂(三尾明神の本地堂)が見えてきます。正面の石段の左脇、桧の大木に寄り添うように三尾影向石と呼ばれる一磐石があり、井桁に組んだ切石によって囲まれています。この石は聖なる磐座として、三尾明神が来臨するときは必ずこの石の座したと伝えられています。(http://www.shiga-miidera.or.jp/about/legend09.htm)
よく読めないけれど、まあ大体、
三尾明神は長等山の地主神なり。貞観元年智証大師ご入寺に際し三尾三神(白尾、赤尾、黒尾)此の処に会合、大師をお迎えし大師の護法を約された□この□谷を琴尾谷と称しこの清流□天人浴河されたと伝えられる。琴尾谷に三尾明神の磐座あり。
*三尾神社はその後応永年間に足利将軍が再興し(http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/travel/108.htm)、1876年(明治9年)に、神仏分離令で現在の場所に移った。
影向石の右奥に普賢堂(昔は本地堂?赤尾神の本地は普賢菩薩とのこと)があるが、その手前は空き地になっていて、そこがかつての上三尾社跡地ではないかと思われる。

三尾明神影向石

三尾明神影向石


上三尾社跡地らしい所で上ってみる。

三井寺

三井寺


石段を上がった正面には基壇らしき土盛りがある。

北東隅あたりに石仏があった。


三井寺

三井寺


右奥の石段を上る。

社があった。


三井寺

三井寺


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普賢堂の奥へは立入禁止だが、かつては更に塔頭・僧坊が並んでいた。岩組だけは残っている。

三井寺

三井寺


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