五台山清凉寺(嵯峨釈迦堂)
仁王門
狂言堂
説明に書いてある様にここで大念佛狂言が行われる。
壬生寺の狂言堂と同様に、一般的に寺社で見かける能舞台とは異なり、このような二階の舞台を観客は下から見上げて見る形になっている。
(壬生寺は狂言堂の向かいの別棟の建物の二階から鑑賞するようになっているが、これは後年の工夫だろう。)
能の「百萬」は「隅田川」のような四番目物の狂女物に分類されるがハッピーエンド型なのが救われる。
愛宕社
屋根の形が面白いので撮影。現在の清凉寺の山号は「五台山」だが、かつては「愛宕山」だっと。本堂に小野道風筆と伝わる「愛宕山」の扁額が展示してある。
仁王門を南に下ったところに嵯峨祭の愛宕神社と野宮神社の神輿を保管してある御旅所があるが、それと何か関連があるのかもしれない。
豊臣秀頼の首塚1980年大阪城三之丸跡から発掘された秀頼の?首を秀頼公再興の由緒を持つ当寺に納めた
ものだそうだ。秀頼は本堂を寄進したが、それは焼けてしまい、現在の本堂は家光の側室で綱吉の母「例の」桂昌院なのに。
聖徳太子殿の後ろに隠れてしまい気の毒な場所にある。
京都市の説明板のように、ここは源融の山荘「
清凉寺は棲霞寺の敷地内に建てられたが、次第にこちらが母屋を乗っ取る形になってしまった。
嵯峨天皇、壇林皇后の「塔」。
檀林皇后(786-850)は珍しく橘氏の出で橘壇林(だんりん)皇后が亡くなったとき、棺を戸板にのせて送葬の途中、この辻に差し掛かったところ、おりから吹いた一陣の風により、棺に覆ってあった帷子(絹又は麻糸で織ったひとえ仕立ての布で、夏の汗取りとして着用した着物)が飛び散った。この出来事が伝承され、このあたりの地名になった」(http://www.keifuku.co.jp/randen/map/08.html)という説明で抑えている。
壇林皇后は橘氏の出だが、この時代は藤原氏の勢力が強まる時期で、承和の変に絡むなど、かなり政略にも長けた人物だったようだ。
嵯峨天皇(786-842)は、桓武天皇の子で平城天皇の弟にあたる。在位は809年~823年だが、退位後も上皇として淳和天皇、仁明天皇の時代にも影響力を持っていた。皇子の一人に源融がいる。
つまり、ここでは父母と息子の塔が並んでいることになる。
この両親の塔は、融の墓に因んで後年建てられたものだろう。
奝然は東大寺の僧で、宋に渡り天台山・五台山を巡り、インドのウダヤナ王が彫らせた釈迦如来像を模刻したものを持ち帰った。それが清凉寺本尊の釈迦如来像。