北尾根縦走路
まさに「尾根」で、左右(東西)の眺めがよい。
御池への分岐。
びわ峠。
人生訓のような事を書いた札がいくつも下がっている。
古代峠。古墳と思われる岩組みが多数見られる。
東光寺日陽山。
田中山方面との分岐。
東光寺不動山。
出世不動への分岐。
磨崖仏方面との分岐。
取り敢えずは山頂を目指すが…。
妙光寺山山頂。
さしたる感慨もないし、眺望もない。
妙光寺山と磨崖仏
ここへ戻り、右の磨崖仏方面へ下ります。
「岩神大龍神様」と左の新しそうな石碑には書いてある。1500年前(6世紀の事?)に鎮座したと書き添えてあるが、横穴式墳墓の感じがする。
「岩神大龍神様」の少し先に妙光寺山磨崖仏がある。
鎌倉時代のものにしては克明に残っているのが意外。彫ってある巨石全体に比べて磨崖仏の部分だけきれいなので、手入れされているのだろう。
周辺には何故か狸がいっぱい。
このような明らかに人の手が入った石を幾つか見かける。かつて、何か構築物があったのだろう。
麓の猪よけのゲートを入ったすぐのところにある社。
福林寺跡磨崖仏
野洲中学校の東側の坂道を上がる。
川沿いの中学校の裏側の遊歩道を西に歩くとゲートがあり、そこを過ぎたすぐ右の川を渡るゲートを通って直進する。
直進すると福林寺跡磨崖仏。右に行って小川を渡るとそこにも磨崖仏がある。
小川の向こうの小磨崖仏群への分岐点の左には熊野十二所権現を祀っていたと思われる神社跡の碑が立っていた。
小川を渡ると目の前の巨石の三面に彫られている。
田植え前の田んぼの向こうに妙光寺山の東側方向を望む。
出世不動明王
上の「野洲川田園空間博物館」の案内板より御池 岸辺に三上神社があり水面が深緑色の神秘的な姿が印象的な溜池です。
妙光寺村は三上村の内でしたが、寛文5年(1665)に御上神社(当時は三上大明神)の氏子から離れ野洲川の用水(神の井)からはずれました。そして翌年、村人たちが自分たちの農業用水確保の為この溜池を築き分村独立したのです。
御池の南岸を東に歩き、そこから出世不動への道を北東に進む。透明度はないが、池の水の色が美しい。
弘法大師様御行場と書いた鳥居というのが、ちょっと可笑しい。
出世不動明王に到着。
修験道的な道具立て。これが本堂だろうか?。
ここにも多数の石仏が集められている。
滝行場
この説明には、ここは弘法大師が42歳の厄除けにこの山で修行し不動明王をきざんだ
とある。
立木観音も弘法大師42歳の厄年に彫った事になっているので、
厄年に弘法大師はあちこちで厄除けをして仏像を彫っていったらしい。
ここを管理しているのは御池の西の集落にある宗泉寺と判明。
御池北東にある。古墳だろうか?
三上神社。御上神社に比べると新しいのは当然か。
上の「野洲川田園空間博物館」の説明では、水争いについて表現を曖昧にしているが、寛文5年頃に妙光寺村は水利権の揉め事で三上村から分離し独自の溜池を造り、独自の氏神として三上神社を祀ったのだろう。
犬がうるさく吠える日陽山宗泉寺(にちようざんそうせんじ)。
東光寺という天台宗の廃寺の塔頭か何かだったのだろう。現在は浄土宗。
東光寺は御上神社の神宮寺だった(「びわ湖百八霊場公式ガイドブック」より)ようで、上の案内板にあるように、持統天皇の勅願で奈良にある元興寺の道智が開基、第3代天台座主の慈覚大師円仁(794年-864年)が中興という。1573年に織田信長の兵に焼かれ廃寺となったらしい。宗泉寺は1541年建立なので、ここだけ逃れたのか、再興されたのだろう。