八講堂千体地蔵、八王子山
2011年7月
八講堂千体地蔵
左下の説明は写真ではよく読み取れませんが「八講堂千体地蔵縁起」という表題
で山門堂舎記によると「八講堂は叡麓日吉社の北に建立された」とあり比叡山の山字名に「八講堂」という谷があり寺屋敷が残っている。山下における論議法要の中心的で重要なお堂であったのであろう。八講堂跡から紅染寺跡にかけての広範囲にわたり無数の地蔵尊が散在している。比叡山が修行の山で、一般の人の参詣に制限があったので、せめて山麓で日夜論議法要の梵音のきこえる処に小さな石造をまつって成仏を祈ったのであろう。近世田畑を耕作するのに際し入鍬ごとに地蔵尊が出てきたので、誰言うことはなしに、ここに集められたのがこの千体地蔵尊である。
と書いてあります。
ちなみに紅染寺(こうぜんじ)とは最澄の父百枝がことにふかく佛法に歸依して。常に讀經念誦し。後には住宅を寺となして住たまふ。東坂本の紅染寺これなり。此ところ春の花。秋のもみち。さなからくれゐいの色ふかくそめなして。軒端をめくり侍れは。かくは名付たまふなるべし(紅染寺の舊跡今來迎寺の西方にあり)。
(傳教大師全集05f064和文大師傳 天台宗典編纂所:http://www.biwa.ne.jp/~namu007/index.htmより入手)という寺。叡山大師伝は撰者は「釈一乗忠」で、最澄の高弟仁忠と考えられる。
(大津歴史博物館:http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/bunka/data/bz_373.htmlより)ということで、その頃には既に廃寺となっていたらしい。
坂本はこちらへ
八王子山
八王子山への登り口。左側に三宮神社、右側に牛尾神社の祠(遥拝殿)がある。
山王祭の神輿上神事でこの坂を神輿を担いで持って上がり、午の神事で東本宮まで下ろすのだから大変な労力だとわかる。
正面の大きな岩が金大巌(こがねのおおいわ)という磐座。右の建物が牛尾宮、左が三宮宮。
神宮寺跡へ
上記の傳教大師全集05f064和文大師傳の続きにはしかるに一子なき事をかなしみたまひて。日枝山の東の麓に神祠あり(八王子の社の奧神宮寺是なり)。夫婦共に彼のやしろに詣て。精祈したまうに。第四日に滿るあかつき。あやしき夢の告ありて。夫人胎内おもき事をおほへたまへは。我願既に滿足しぬとて下向したまふ。それより月日かさなりて。人王四十八代稱徳天皇の御宇神護慶雲元年丁未八月十八日に。江州滋賀郡三津の浦にて誕生まします(誕生の地は後に寺を建すなはち今の東坂本の生源寺是なり)。
と書いてある。本当は7日間参篭しなくてはいけないのに4日で帰ってしまったので、後年最澄が残りの3日分参篭したという。碑は大正10年(1921)に伝教大師最澄の1100年遠忌記念に建立されました。
(大津かんきょう宝箱:http://www5.city.otsu.shiga.jp/kankyou/public/view.asp?piid=02030200040171&view=1)
大津市教育委員会が平成17年から18年に発掘調査を行った。今回見つかった遺跡が、書物や古図に見られる神宮寺であるかどうか現段階では判断できないが、今後の遺構、遺物の検討により、その姿が明らかにされる
と歯切れが悪いが、南北16メートル、東西13メートルの方形の石組の溝が巡らされ、その中に室町時代の遺構と思われる建物礎石が見つかった。
また敷地一部をさらに二十センチ掘り下げたところ、出土土器から推定して平安時代(10│11世紀)の遺構と思われる遺構も見つかった。敷地全面に広がっていると思われるその遺構は、固く叩き締められた面や石列、石敷などが検出された。遺構面の下には、1メートル以上にわたって土が堆積しており、さらに古い遺構が存在する可能性がある。
と大師傳を裏書する発見と言える。