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高雄山神護寺

2011年8月

女人禁制です。もちろん今では全く無視されている。
神護寺は道教と女帝の称徳天皇(孝謙重祚)の宇佐八幡神のご神託事件で有名な和気清麻呂が氏寺として建てた。中国の五山を真似た愛宕五房の一つと言われる。清麻呂の子、真綱と仲世が、唐から戻ったが20年の留学のはずが2年で戻ってきてしまったので都に入れてもらえなかった空海を招いて金剛界、胎蔵界灌頂を行い、この時は最澄も参加している。天長元年(824)に河内にあった神願寺と合併し定額寺(国が監督、経済支援していた官寺に次ぐ寺院)として神護国祚真言寺となった。明確な年はわからないが今昔物語集に「弘法大師修請雨経法降雨語」というのがあり、神泉苑で請雨経の法を行い雨を降らせた話が載っている。こういう事を通じて空海は次第に朝廷の信頼を得ていったのだろう。その後、空海は高野山や東寺を与えられ移ってしまう。そして近衛天皇の久安年間に院政を敷いていた鳥羽法皇を怒らせて全山壊滅状態になったというが、それがどういう理由なのか調べがつかなかった。
その神護寺を再興したのが文覚上人だった。

Taka-o Jingoji temple


Taka-o Jingoji temple

この石段で文句を言ってはいけない。
ただ、バス停は清滝川の反対側の崖上にあり、そこから谷底の川へ下り、そこからもう一度この石段を上らなくてはいけないので確かに大変だ。
高山寺や西明寺から来れば、最初から清滝川に沿って歩いてくるので、さほどの苦ではない。


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硯石。空海が勅願で依頼された額を書こうとしたが、急な5月雨で橋が流されので、この石を硯として対岸に立てかけた額に向けて筆を投げたら「金剛定寺」の四文字を書けた(この寺は現存しない)という達筆の人に相応しい逸話が書いてある。
硯石亭まで来ると、あとはポスターで見慣れた楼門までの石段となる。


紅葉の時期の広告で有名な楼門への石段。

Taka-o Jingoji temple

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後陽成天皇の第一皇子覚深法親王(1588年-1648年)の筆という額。
当然皇位継承者だったはずだが外されて出家し仁和寺第21世門跡となった。

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和気清麻呂の霊廟。


Taka-o Jingoji temple

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これだけ妙に神社風。

和気清麻呂霊廟の先のこの石段を上がると正面は鐘楼、途中から左に行くと和気清麻呂墳墓への道となる。


Taka-o Jingoji temple

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鐘楼。外からは見えない鐘は「三絶之鐘」と言われる国宝。
和気清麻呂の子孫の和気彜範(つねのり)が志我部海継という工人に造らせた。鐘に書いてある聯記を橘広相が、銘文は菅原是善が作った文を、藤原敏行が書いた。それで三絶なのだそう。

Taka-o Jingoji temple

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右の良い道を行けば和気清麻呂公墓へ、左は文覚上人などの墓への道。左に登ると、多宝塔の右側からの道に合流する。

和気清麻呂公墓までの道はよく整備されている。


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寛文と書いてある?とすると1660年代。
護王善神の文字はちゃんと読み取れる。


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明治時代に烏丸通下長者町に持って行かれてしまった護王神社は以前はここらにあったのだろうか?。

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和気清麻呂之墓。
もっとも「正一位」は嘉永四年(1851)に孝明天皇が与えたものなので、石碑は明治以降のものに違いない。


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多宝塔。
中に国宝の五大虚空蔵菩薩(宝光、蓮華、法界、業用、金剛)像が安置されている。
各々、南:青:金翅(コンジ)鳥、西:赤:孔雀、中央:白:獅子、北:黒紫:馬、東:黄:象に乗る。
元々は承和三年(836)から作られた五重の?宝塔に安置されていたという。
昭和十年(1935)に山口玄洞(1863-1937)氏の寄進。
山口玄洞は尾道出身で大阪で財を成した人物。とんでもないお金持ちの篤志家がいたものだ。


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多宝塔から金堂へ下る石段の途中にある竜王堂。


Taka-o Jingoji temple

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金堂。これも昭和十年(1935)に山口玄洞氏の寄進で建てられた。
山口玄洞氏の家は京都府立医大の北側にある聖ドミニコ修道会京都修道院聖トマス学院。

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堂内は撮影禁止だが、本尊は神願寺の本尊だったのではないかと言われるが異論もある、口をへの字に閉じた骨太な姿の国宝の薬師如来立像。平安前期の作とされる。

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明王堂。
鐘楼への石段をはさんで和気清麻呂霊廟の先だが、なんとなく周囲から孤立した感じで建っている。


五大堂。

毘沙門堂。


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重要文化財の大師堂。仁安三年(1168)に文覚上人再建という。ただし細川忠興が改造して桃山様式になっているという。
弘法大師の納涼房だったという話もあり、木陰で涼し気な感じがする端正な建物。中には板彫の弘法大師像がある。


ここでは、ぐるぐる回すと何を唱えたことになるのだろう?

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地蔵院。
横の広場からのかわらけが有名だが、この建物の由緒はよくわからなかった。しかし、眺めは良いだろう。


錦雲渓と言われる清滝川の眺め。かわらけはここに向かって投げる。的になるものがないので上手く投げたのかはわからなかった。

閼伽井。


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金堂の向かって右側に不動明王像があり、その右の道は鐘楼への石段を途中で左に行った和気清麻呂公墓への道と合流する。

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和気清麻呂公墓への道を石柱に従って左に登り、多宝塔からの道と合流し、なおも歩くと文覚上人の墓へ行けるはずなのだが、山を登らず逆に少し下ってしまったりするので三度も行きつ戻りつし、ようやく道を間違ったと思われる地点を発見した。
ここが問題の分かれ道。道なりに素直に右に進むと和気清麻呂之墓方面へ行ってしまう。左に無理やり坂を登る。

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ここまでは完全に山歩き状態になってしまっているが、この分岐点を左に行けばもうすぐ到着。


かつてはちゃんと整備してあったと思われる道になる。

視界が開けると最初に目にするのは宮内庁の注意書き。


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まず宮内庁が管理している後深草天皇第四皇子性仁(しょうにん)法親王の墓。

隣の文覚上人の墓との間には宝珠露盤が置いてある。


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露盤は屋根の上に付いているものなので、これがあるという事はお堂があったという事。四隅には柱を立てた礎盤も残っている。

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文覚上人は平家物語巻五の文覚荒行、勧進帳、文覚被流、福原院宣によると、遠藤盛遠という北面の武士だったが出家して「刃の験者」と言われた。荒廃した神護寺を再興しようと思い勧進帳を持って後白河法皇の法住寺へ行き強訴してトラブルをおこしたので、伊豆へ流罪となる。そこで源頼朝と会い、謀反を起こせと説得する(これは『吾妻鏡』説)。結局、頼朝のバックアップで神護寺を再興する。
文覚上人がいつ頃神護寺にもどったのかよくわからないが、明恵上人が叔父の上覚に連れられて神護寺に入ったのは養和一年(1181)。この年には平清盛が亡くなったが、一方、源氏の頼朝、義仲はまだ 前年に挙兵したばかりの状態。従って寺は荒れたままだったのではないかと思われる。
文覚上人は頼朝のバックアップで神護寺の再興を果たすが、頼朝の死後、後ろ盾を失ったためか建仁三年(1203)対馬に流される途中で亡くなった。

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双眼鏡が必要だけど、京都タワーから日本電産本社まで見える眺望。

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