蝉丸神社、関蝉丸神社上社
2011年11月~12月
蝉丸神社
右下の説明には、天慶九年(946年)に蝉丸を主神として祀ったと書いてあるが、万治三年(1660年)に社を建てたというので、それではそれ迄はどこにどのように祀られていたのかがわからない。万治元年(1658年)に関蝉丸神社(下社)を勧請したという史料(伝承?)もあり、この方が妥当に思える。
車石。ここは峠越えだからこのような施設は特に有り難かっただろう。
右脇の摂社は合祀されているという猿田彦命か豊玉姫命に続く、
第四の神様?
蝉丸神社の摂社の脇から東海自然歩道を行き、
逢坂歩道橋手前にある逢坂の関の説明板。音羽山と逢坂山の間の谷なので大津と山科を行き来するのに最短コースだったろう。今は更に谷を削り国道一号線が通っている。
逢坂関を越えると言っても、国道1号線では逢坂歩道橋辺りが一番高い場所で、ここからスタートすると大津へも山科へも下るだけ。
山間を抜けて人家が現れたあたりにあるのは逢坂山弘法大師堂。
この場所と弘法大師のいわれは未調査。
関蝉丸神社上社
関明神 上関寺有有下社御旅所蝉丸霊地云 長明無名抄云むかしのせみ丸といふ成へしかのわらやの庵をうしなハずしてそこに神となりてすみ給なるへし今もうち過るたよりにみればかし深草の御父にてよしみねのむねさた通ハれけんほとの事まておもかげにうかびてこそ侍れ
とある(原田蔵六『淡海録』110頁 滋賀県地方史研究家連絡会 1980)。
左下の説明によると、弘仁十三年(822年)に
なお、「萬治(存在しない元号)三年」と書いてあるが万治という元号は1658年を元年とし万治三年(1660年)まで3年間だけ存在した。天皇は後西天皇。
旧逢坂山トンネル
明治十一年八月に京都-大津間の鉄道建設工事は着工された。4工区に分けた路線は、京都-深草、深草-山科、山科-逢坂、逢坂-(馬場:膳所)-大津(浜大津)というルートで逢坂山隧道は明治十一年十月に大津側、明治12年12月に大谷側で着工し、明治12年8月には落盤事故もあり4人の死者を出したが、明治十三年六月に開通した。この京都-大津間全体の工事では、顧問に外国人技師一人が参画したが、あとは総て日本人だけによる工事だった。このトンネルは大正十年に現在の東海道線のルートが出来たときに廃止された。
安養寺
行基作とされる国の重文阿弥陀如来座像がある。
京都から逃れてきた蓮如が斬りつけられた時、振り下ろされた刃の方に傾いて蓮如の身を守った身代わり名号石というものもある。
観音堂の立聞観音は蝉丸の琵琶を立ち聞きした僧が観音像になったという言い伝えがあるそうだ。