関蝉丸神社、長安寺
2011年11月~12月
関蝉丸神社(下社)
京津線上栄町駅近くの関蝉丸神社。
踏切を渡るといきなり境内。
初めて「蝉丸」を観たのは国立能楽堂の普及公演。姉の逆髪と別れるキリでは思わず涙が出た感動の作品。
関の清水。紀貫之が「逢坂の 関の清水にかげ見えて 今やひくらん 望月の駒」と詠んだ泉だが、すぐ北側の山中に逢坂山トンネルが大正10年(1921)に掘削され水脈を切断されて枯れてしまったと言われる。
時雨燈籠(国の重文)
「鎌倉時代の特色をもったよい石灯籠」という説明は、もうちょっと具体的にどこがどう良いのか書けないものかと思う。
何故、「時雨」なのかも知りたいところ。
小町塚:小野小町の墓だというのは信じがたいが。
貴船神社
貴船神社の社の中はかなり質素。
延命地蔵
本殿修復
クラウドファンディングによる資金で、2023年2月に着工し、6月末に竣工した。
長安寺
ここは京津線の踏切から直接境内というわけではない。
立て札や右隣の家から牛塔の大きさを感じて下さい。
さりげなく立っているが、きれいに清掃されていて地元で大切にされていることがうかがえる。
本堂
長安寺の本寺にあたる京都市五条坂にかつてあった吉水道場法国寺と錦にあった六条道場歓喜光寺が明治初期に合併した際、歡喜光寺本堂を移築したものです。移築以前の本堂は、現在、長安寺書院として使用されている建物です。『長安寺明細帳』に収録された絵図面からも現在の書院が本堂兼庫裡として活用されていたことが分かります。
(http://blogs.yahoo.co.jp/sekidera_choanji/8689730.html)
正面の戸の右の柱に「牛佛(迦葉佛) 関寺遺跡 時宗 長安寺」と書いてある。創建年次は不明であるが、976年(天延四年・貞元元年)の地震で倒壊したのを源信の弟子である延鏡が、仏師康尚らの助力を得て1027年(万寿4年)に再興した。その時、清水寺の僧侶の寄進によって用いられた役牛の1匹が迦葉仏の化現であるとの夢告を受けたとする話があり、その噂を聞いた人々が件の牛との結縁を求めて殺到し、その中に藤原道長・源倫子夫妻もいたという。そして、その牛が入滅した際には源経頼が遭遇したことが『左経記』(万寿2年6月2日条)に見え、その後菅原師長が『関寺縁起』を著した
(http://ja.wikipedia.org/wiki/関寺)
迦葉佛は釈迦までの過去七人の仏陀の一人。
この玉姫龍神だけは周りの仏塔や石仏とタイプが違う。玉依姫命なら、一般的には巫女さん。『日本書紀』の豊玉姫ならワニの姿なので龍神に相応しいかも。その他、
小野小町供養塔。関寺小町については右の謡曲史跡保存会の解説を参照のこと。小野小町をシテ(主人公)とする能は、七小町といって7つあるが、通小町、鸚鵡小町、卒都婆小町、関寺小町は年老いてから/死後の小町で、衰老落魄説話という盛者必衰みたいなストーリーは南北朝~室町時代に流行っていたのか、これらの能も流行らすのに貢献したのか、そこらはよくわからないが、同時代の人達がどう思っていたかはともかくとして、過去の女性を題材にこういう話を流布するのは、なんか嫌な感じがする。もちろん、それぞれの曲で、老境の小野小町はそれなりの気高さや、老いの美学、境地といったものを格調高く表現してはいると思うけれど、やはりねーなのだ。
一遍上人供養塔と超一房供養塔。
超一房供養塔は、平成十四年7月に先代住職により建立されたものです。…時宗宗祖一遍上人の生涯を描いた国宝『一遍聖絵』(清浄光寺(遊行寺)蔵)によると、文永十一年(1275年)に一遍上人が遊行の旅に出た際、同行した3名の中にこの超一房がいました。一遍上人と超一房との関係については、さまざまな説があります。正妻、側室等の説があり、小説などで取り上げられています。しかし、『一遍聖絵』では、一遍上人と同行した超一房を含む3人との関係についてあえて記していません。この長安寺の前身である関寺には、弘安六年に一遍上人と時衆が逗留し、踊り念仏が厳修されている様子が『一遍聖絵』に描かれています。さて、超一房は、一遍上人の時代から記されていた『時衆過去帳』によれば、この関寺逗留の頃、亡くなっているのです。そのため、長安寺には、この超一房の供養塔が建立されたのです。
(http://blogs.yahoo.co.jp/sekidera_choanji/14302313.html)
西国三十三所の石仏が山腹の道沿いに並んでいるが、周る人はほとんどいない感じの道だった。
長安寺は、かつて五丈の弥勒仏を本尊とする園城寺別院の世喜寺だったようだ。それから関寺となり鎌倉時代に一遍が来て時宗の寺になった。
上にも書いた牛塔の話は、「源信の弟子延鏡が再興」という事で、この時点では天台宗の寺だったことがわかる。