近松寺から長等神社へ
江戸時代までの園城寺は、南院、中院、北院と三つの地域に分けられていた。これは延暦寺の東塔、西塔、横川に対抗したものかもしれない。北院に常在寺、中院に水観寺、南院に近松寺、尾蔵寺、徴妙寺と合計五別所があり、更に如意ヶ岳に如意寺があった。現在、一般に園城寺(三井寺)と思われている地域は、ほぼかつての中院だけになってしまっている。
その1
2011年11月~12月
近松寺
大津赤十字病院の裏から坂を上がると金毘羅さんが祀ってある。琵琶湖の水運業者が信仰していたのだろう。
社を覗くと中は空っぽ。ご神体は他の場所に安置されているのだろうか?
金毘羅さんの左側の石段を上がると右手に近松寺。
近松寺の南隣に祀られている
高観音近松寺。
園城寺の別所。別所とは「仏教寺院の本拠地を離れた所に営まれた宗教施設。聖とよばれる僧侶が寺院周辺などに集まって修行するために庵や仏堂を設けた場所。
」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E6%89%80)
本尊は智証大師円珍作と言われる千手観音像。園城寺で一番高い位置に祀られている観音なので高観音と呼ばれる。
口伝とことわっているが、近松門左衛門が赤穂藩に仕えていた二十代の時、赤穂の塩を全国に廻船航路網を使って販売する計画を練るためにここに「塩の道塾」を作り検討したという話が『足のむくまま 近江再発見』という本に紹介されている。
豆粉地蔵の右隣の住宅が庫裏、その右が近松寺、その右が善光寺。
近松寺本堂。
善光寺。近松寺阿弥陀堂と書いてある。
背後は崖。前は道路と狭い場所に並んでいる。
長等山不動明王
「長等橋」と書いてある。今は下に水は流れていない。
修験道は16世紀頃に聖護院を中心とした天台系の本山派と、醍醐寺三宝院を中心とする真言宗系の当山派の二大勢力が形成された。徳川幕府は全国の修験道を日光輪王寺門跡直属を除き、両派いづれかに所属させ麓に定住させる政策をとった。
熊野三山検校職を抑えていた聖護院の開祖は、白河上皇の熊野御幸の先達を勤め熊野三山検校に補任された園城寺の増誉。聖護院は第二次世界大戦後に独立した本山修験宗の本山となるまではずっと天台宗寺門派の寺だった。
園城寺にとって修験道は三道融会(顕教:止観業、密教、修験道)の一つ。従って、園城寺の周辺に修験道にからんだ施設があってもおかしくはない。ここ南院の長等山不動明王に対し、北院には山上不動堂があるが、全体として修験は聖護院が扱っていたのか、園城寺の周辺には修験道の気配はあまり感じられない。
なお、飯室不動堂の比良修験道は天台宗山門派(延暦寺)となる。
不動明王は崖の岩に嵌めこまれた石仏のようだ。意外と可愛らしい姿。
左側の広場は護摩供奉修と時に使われるのだろう。
右手にはお稲荷さん(鳥居の額には若松、若鶴、若丸大明神と書いてある。)
と、長姫龍神。どういう龍神さまなのか?
慶祚 阿闍梨入定窟
龍雲坊先徳慶祚は10世紀後半の人で園城寺五別所の一つ微妙寺の開基。師の余慶が989年に天台座主になったが山門派の反対で同年辞職し岩倉の大雲寺へ移った時、一緒に移った時期もあるようだ。
この洞窟にいつごろ籠っていたのかは、よくわからないが、すぐ上に墓があるらしく、晩年をここで過ごしたという事だろうか?
大津大神宮
慶祚阿闍梨入定窟の向かって右隣にある明治に作られた神社。
両国寺
慶祚阿闍梨入定窟、大津大神宮を道を隔てた向かい側(左の写真の左側)は長良公園。「大津で最初に開設された都市公園」と書いてある。
その向うに写真には写っていないが鐘楼が見える。そこが両国寺。
入口に「柳谷観世音」の石柱が立っているように、この寺は柳谷観音楊谷寺の大津別院。