石山寺 (1)
東大門。鎌倉時代に建てられ、桃山時代に板葺きから瓦葺きに改築されたらしい。国の重文。
仁王像も鎌倉時代の作のようだ。力強い動きが感じられる秀作だと思う。
西国三十三箇所観音霊場第13番札所で真言宗の寺。聖武天皇の発願で滋賀県南部では有名な?良弁が東大寺大仏用の金を得るために聖徳太子の念持仏だった如意輪観音を祀ったのが始まりと言われる。
門を入って左側の法輪院。
世尊院の門。
金龍竜王とは豪華な名前(「金龍」は街の中華料理屋にありそうだけど…)。大日如来の化身で竜族のトップと書いてある。
「江戸時代中期にその姿を現す」に少々びっくり。ひどい旱魃でもあって雨を降らせてくれたのだろうか?
くぐり岩をくぐってみよう。
良弁が金峰山の蔵王権現のお告げで東大寺大仏用の金を祈願する地を求めてここへやってきた時、釣りをしている老人の姿の地主神・比良明神にここがその場所だと告げられたという。
一方、那須与市地蔵尊とは…
蜜蔵院。島崎藤村が明治26年5月に東大門門前近くの茶丈(茶店のことか?)に二ヶ月間滞在し、「茶丈記」という紀行文を書いて「文学界」に載せた。その茶丈は蜜蔵院がかつてあった場所だという。恐らく現在は公園のようになっていて門前市「
少なくとも、現在はただ回っているだけの水車。
閼伽井。いかにも水が湧いていそうな場所だが、現在も使われているのやら?
三十三所巡りがあるが、パス。
石山寺縁起絵巻第二巻第六段にある伝承
この池は龍穴とみなされていて、歴海和尚が尻掛石に坐って孔雀経を転読(お経の名と初、中、終りの数行を読み全体を読んだことにしてしまうのだとか)したらお経に出てくる龍の名前につれてそれぞれの龍が現れ、和尚が帰るときには背負っていってくれたという。歴海和尚がどのような人物であったのかは調べがつかなかった。
龍穴ノ池の先には源頼朝の兄源義平の隠れ谷がある。頼朝が多宝塔を寄進したのは、義平を匿ってくれたお礼というし、寺領も与えられた。平治物語では、平治の乱に敗れ父源義朝らと美濃青墓宿まで下り、そこから東山道を一人で行き味方になる兵を集めるが、義朝の死を知った後、平清盛か重盛を殺そうと京都へ戻るが発見され、ここに隠れているのを発見され捕らえられて六条河原で斬首されたという。現在、この奥をずっと行くと滋賀刑務所の方にでてしまうはず。
上は光堂。左は豊浄殿。豊浄殿では春と秋に紫式部展が公開される。
心経堂。
説明に書いてあるように平成2年に落慶の新しい建物。
本堂を背後から見る。
宝蔵。
長安寺の牛塔と似たシンプルな形。平安朝時代と書いてあるが、これも鎌倉時代の作ではないか?
相輪部分が長いので高さはこちらの方がちょっと高い。
明示していないのでわからないが、右が頼朝で左が亀谷禅尼の供養塔だろう。左だけ国の重文。
琵琶湖方面を眺める。名神高速とかマンションがやたらと目立つ。
瀬田川を見下ろす月見亭と芭蕉庵。秋のお月見の名所。近江八景の「石山秋月」の場所と言える。
広重近江八景国立国会図書館デジタルコレクション
大友皇子を葬ったとする場所がここにも!
「若宮」は説明の文字通りの解釈では三十八所権現の子供になるが非業の死をとげた祟る子・人を祀るという話もある。壬申の乱は672年、石山寺創建が天平勝宝元年として749年で、良弁開基時に大友皇子の墓が既にここにあった?まあ、そういう後付の伝承なのでしょう。何故2002年に建立したのだろう?
月見亭を見上げると崖の途中に建っていることがわかる。
鐘楼。鎌倉時代後期の建物。多宝塔と同様、全体のバランスが良い。鐘は外からは見えなかった。