六道の辻
西福寺(桂光山敬信院)
本尊は阿弥陀如来だが、お地蔵さん多数と不動明王も祀る。
そもそもは空海が自作の地蔵尊を祀った地蔵堂を建てたのが始まりという伝承で、檀林皇后が子供の正親親王の病気平癒を祈願したので子育て地蔵と呼ぶようになったとか。
嵯峨の清涼寺に壇林皇后の塔があるが、ここには壇林皇后九相図がある。
不動明王は後白河法皇が熊野の不動堂での千日修行に出かける際の道中安全をここのお地蔵さんに祈願し、無事に帰ってこられたので熊野から不動明王をお地蔵さんの守護神として勧請したとされる。末廣不動というが「末廣」と付いた由来がわからない。まあ、おめでたい言葉ではありますが…
本尊の阿弥陀如来像は更に後の室町時代あたりの作とされる。
六道珍皇寺
小野篁が冥界に通う入口だったという井戸と盂蘭盆の前の精霊迎え・六道さんの迎え鐘で知られるお寺。
六道さんの頃には高野槙を売る店が並び、迎え鐘をつく行列が東側に伸びるが、普段は静かだ。
上の京都市の説明では、「創建についての詳細は明らかではないが、平安・鎌倉時代には東寺に属して隆盛し、その後衰退した。室町前期の正平年間(1346-70)に建仁寺の僧、良聡によって再興され、臨済宗に改められた。」とある。実際は建仁寺に買収され、東寺ともめたらしい。
閻魔・篁堂の閻魔様は室町時代、小野篁像は江戸時代の作。
下の写真を撮った頃の閻魔・篁堂は常時開放されていた。
いつの頃からか扉が閉じられて、普段は小さな窓から覗くだけになった。文化財保護や警備上止むを得ないのだろう。
『古事談』第五-四十に「珍皇寺の鐘の事」という話が載っている。珍皇寺の別当云く「当寺の鐘は、慶俊僧都、之を鋳る。土に埋み、三ヶ年を経て掘り出すべきの由契て、入唐し畢ぬ。而るに一年半計りありて、本寺の住僧等、之れを掘り出し、之れを槌つ。音唐土に聞こゆ。仍りて慶俊示して云く『吾寺の鐘の声こそ聞ゆなれ。槌たざるに六時に鳴らさんと思ひつるものを。太だ口惜し』」と云々。件の僧都は弘法大師の祖師なり。
(新注古事談 笠間書院より)
六時に自動的に鳴る鐘にしようという発想がなんとも…。ウイスキーやワインではあるまいし、ねかせて良くなるとは思えないが、昔はこういうエージングの手法があったのだろうか?慶俊は奈良時代の僧で、この寺の創建などに関係したとは思えない。
お岩大明神
四谷怪談のお岩さんはお稲荷さんとして新宿御苑と四谷駅の間にある陽運寺と於岩稲荷田宮神社に祀られている。近世には夫婦円満の神として信仰されたという。
夜の六道珍皇寺。小野篁が冥土へ通勤していたという井戸がある寺らしいドギツイ赤だ。
六波羅蜜寺
年末恒例行事として必ず新聞に載る空也
整備された阿古屋塚と清盛塚。
左の清盛塚は、かつての平家の六波羅の屋敷、特に清盛が住んでいた泉殿のイメージで付けられた名前のようで、別に平清盛とは関係ないようだ。では何なのだろう?
阿古屋は平景清が目の恢復か平家の再興を祈願して尾張から清水寺に通った時に「深い仲」になった茶屋の遊女。熱田の遊女との間に娘をもうけ、清水でもとは、お達者な人物だ。もちろん伝承ですが。浄瑠璃や歌舞伎の「壇浦兜軍記」などで有名になった。この塚の台座は古墳の石棺の蓋だそう。
道元禅師御説法之遺跡の碑
下の石に寛元元年(1243年)4月29日、六波羅蜜寺で『正法眼蔵』「古仏心」の巻を衆に示された
と書いてある。「古仏心」は『正法眼蔵』75巻本では巻九に記載されている。古仏心とは何かについての問答で「